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寒川辰清 (1697-1739)

江戸時代中期の儒者、国学者。 元禄10年(1697)に京都油小路出水の中邨土佐守の二男として生まれ、のち膳所藩士・寒川辰成の婿養子となりました。膳所藩主・本多康命、康敏の二代にわたって藩主の侍講(学問...

明智光秀 (生年不詳-1582)

安土桃山時代の武将。子に、細川忠興の妻となったガラシャがいます。 美濃国の生まれといわれ、はじめ越前の朝倉義景に仕え、のち織田信長に仕えます。光秀は武将としてだけではなく儀礼、故実に通じ、連歌や茶の湯...

豊臣秀吉 (1537-1598)

安土桃山時代の武将。貧しい家の出ながら戦国武将となり、天下統一を果たしたことで知られます。 尾張国愛智郡に足軽の子として生まれたといわれます。名は、木下藤吉郎。財も家柄も無く、針売りをして回りますが、...

徳川家康 (1542-1616)

江戸幕府初代征夷大将軍。のちに265年間つづく徳川氏政権の基礎を固めたことで知られます。 三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれます。幼少から隣国の織田、今川氏の人質として育ちますが、永禄3年(1...

松尾芭蕉 (1644-1694)

江戸時代前期の俳人。俳聖・松尾芭蕉としてひろく知られます。 寛永21年(1644)伊賀国上野(三重県上野市)に生まれ、生涯を旅に過ごし、『奥の細道』『更科紀行』など俳文学の名作を生みました。 芭蕉と大...

弘法大師空海 (774-835)

平安時代初期の高僧で、真言宗の開祖。入唐八家のひとり。日本仏教界のスーパースターとして広く知られます。 讃岐国多度郡に生まれ、15歳で京都へ遊学。18歳で高級官僚養成のための大学に入りますが、まもなく...

源義仲(木曽義仲) (1154-1184)

平安時代末期の武将。 誕生の翌年に父・源義賢が勢力争いに巻き込まれ敗死し、乳母の夫・中原兼遠を頼って信濃国の木曽に移ります。兼遠の四男で、のちに「木曽の四天王」と称される今井兼平とはこの木曽の地で出会...

蓮如上人 (1415-1499)

室町時代の僧で、浄土真宗中興の祖。 蓮如は本願寺第七世・存如を父に、応永22年(1415)に大谷本廟で生まれました。しかし蓮如が生まれた頃、本願寺は荒れるがままの状態だったため、はじめ青蓮院の尊応に学...

織田信長 (1534-1582)

戦国、安土桃山時代の武将。戦国の乱世に終止符を打ち、天下統一への地盤を固めた英傑として知られます。 尾張国に生まれ、性質は剛腹で人の意表をつく行動が多く、「尾張のおおうつけ」とあだ名されました。父・信...

紫式部 (973頃-1014頃)

平安時代中期の女流物語作者、歌人。日本最古の長編小説『源氏物語』の作者としてひろく知られます。 幼くして母を亡くし、越前守であった父・藤原為時のもとで育ちます。為時は文人としても名高く、和歌や詩文に長...

源頼朝 (1147-1199)

鎌倉幕府初代征夷大将軍。鎌倉〜江戸時代までつづく「武家政権」を樹立したことで知られます。妻は北条政子。異母弟に源義経がいます。 ときは平安時代末期、貴族の権力闘争に武士が加勢するようになり、その二大勢...

淀殿 (生年不詳-1615)

豊臣秀吉の側室。名は茶々。 近江国小谷城主・浅井長政の娘として生まれます。母は織田信長の妹・お市。天正元年(1573)、その信長に小谷城を攻められ、長政は自刃します。母・お市と茶々たち三姉妹は救われ、...

天智天皇 (626-671)

日本の第三十八代天皇。歴代天皇のなかでも最も著名な人物として知られます。 推古天皇34年(626)に奈良・飛鳥の地に生をうけました。即位前は中大兄皇子。645年、中臣鎌足とはかり、当時権力を握りつつあ...

淳祐内供 (890-953)

平安時代の真言僧。菅原道真の孫にあたります。 東大寺で受戒し真言の修行をつんだのち、石山寺中興の祖といわれる理源大師聖宝の弟子・観賢に従い、やがて般若寺で観賢から伝法灌頂を受けます。しかし淳祐は病弱で...

足利尊氏 (1305-1358)

室町幕府初代征夷大将軍。 元寇以降、困窮する武士らを支えられず権威を落としつつあった鎌倉幕府と、かねてより天皇親政の理想にもえていた後醍醐天皇との対立が深まるなか、元徳3年(1331)、ついに元弘の乱...

E・F・フェノロサ (1853-1908)

アメリカの日本美術研究家。 ハーバード大学卒業後、明治11年(1878)に来日し、東京帝国大学に着任。教鞭をとるかたわら、日本の古美術を研究し海外へ紹介しました。岡倉天心とともに古美術の保護を指導し、...

良弁僧正 (689-773)

奈良時代の学僧。東大寺を創建した四聖のうちのひとり。 百済系の渡来人の子孫とも、また近江国の出身ともいわれますが、定かではありません。華厳宗の学僧として僧正にまで任ぜられ、東大寺造営と大仏造立の機縁を...

役行者 (634-701)

7世紀後半の山岳修行者。「修験道」の祖として崇拝されます。 修験道とは、日本古来の山岳信仰が仏教や陰陽道などの影響のもとに習合された日本独自の宗教です。大自然そのものを神とし、その顕現を仏とし、霊山を...

智証大師円珍 (814-891)

平安時代前期の天台宗の高僧。入唐八家のひとり。園城寺(三井寺)中興の祖で、天台宗寺門派の祖としても仰がれます。 円珍は、弘仁5年(814)に讃岐国那珂郡に生まれます。俗姓は和気氏。母は佐伯氏の出自で空...

武蔵坊弁慶 (生年不詳-1189)

鎌倉時代初期の僧。謡曲や歌舞伎などにも多く描かれ、英雄豪傑としてひろく親しまれています。 熊野の別当の子に生まれ、鬼神のような怪力をもっていたことから「鬼若」と名づけられたと伝わります。やがて比叡山の...

慶祚阿闍梨の入定窟

慶祚阿闍梨は、平安時代中期の僧で、天台宗の山門(延暦寺)と寺門(園城寺)分立後の園城寺を隆盛に導き、園城寺五別所のうちの尾蔵寺と微妙寺を開いたことで知られています。寛仁2年(1018)12月22日、7...

還来神社の由緒

奈良時代の官人・藤原百川の娘としてこの地に生まれた旅子は、長じて、比良山南麓の最勝寺の開祖・静安について仏道に帰依しました。その後京都へ移り、28歳のとき桓武天皇の夫人となり、淳和天皇を生みます。しか...

辻の地蔵

真野町中村の中村会館から100メートルほど東方の四つ辻に、「辻の地蔵」と呼ばれるお地蔵さんが祀られています。かつて、女性が厄年(33歳)に子を産んだ場合には、一度その赤ん坊を竹の箕に入れて、この辻の地...

おとせの浜

源平争乱の時代のことです。堅田の出身で、京都の源氏のお屋敷に奉公していた「おとせ」という女性がいました。おとせは、争乱のなか、源氏の旗印である白旗を守って京都から大津へ逃れましたが、追手の軍勢がせまり...

安然と投足弁天

むかし、安然という碩学の僧がいました。比叡山で学問を究めたものの生活は苦しかったようで、ある日のこと、安然は弁財天に「福を授けてくれるように」と頼みました。ところがなんとしたことか、弁財天は片足をまえ...

練貫水

大練寺の境内には、かつて「練貫水」と呼ばれた名水が湧き出ていました。大津宮を開いた天智天皇の御衣を練った(生絹を煮てしなやかにした)ことからこの名がおこったといわれています。豊臣秀吉も大練寺を訪れ、こ...

犬塚の欅

浄土真宗発展の礎を築いた蓮如上人が、比叡山の僧兵たちによる真宗迫害の難から逃れ大津へおちのびたときのこと、蓮如をなきものにしようと企む者たちが、上人の食膳に毒をもりました。そうとは知らぬ上人が、まさに...

弘法大師と立木観音

弘仁6年(815)、弘法大師空海が諸国を行脚していたとき、大石のあたりで立木山の山腹に光を放つ霊木を見つけました。「これも仏様のお導きに違いない」と、大師はその霊木に向かって進もうとしましたが、眼前に...

多賀花・善平衛の比翼塚

むかし、大津の柴屋町遊郭に多賀花という遊女がいました。呉服屋の手代・善兵衛と恋に落ちましたが、手代という身では遊女の身請けなど出来るはずもありませんでした。二人は所詮、この世では添われぬものとあきらめ...

大日山と乳の池

伝説によると、むかし湖北の竹生島には三つの島があり、その一つが琵琶湖から瀬田川に入り、流れ着いて陸地となったのが大日山であるといわれています。「大日山」の名の由来は、奈良時代の僧・行基が、この山全体を...

明智左馬之助の湖水渡り

天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君・織田信長を京都本能寺に討ちます。そこからわずか十日ばかりの後、同月13日、光秀は山崎合戦で羽柴秀吉に敗れます。このとき、安土城を占拠していた光秀の娘婿・...

俵藤太と大百足退治

ある日のこと、藤原秀郷(=田原藤太)が瀬田の唐橋を渡っていると、橋の中ほどに長さ二〇丈(約60m)にもおよばんとする大蛇が横たわっていました。皆が大蛇を恐れ橋を通れず困っているなか、秀郷は平然とその背...

へそ石

奈良時代に造営された保良宮の礎石と伝える石です。地元では雨乞い祈願に用いられ、「雨壷に願かけて、へそ石焼くと雨が降る」との言い伝えが残されています。「雨壷」とは雨壷神社のことで、現在は近津尾神社の境内...

田上不動寺の開創

859年、智証大師円珍は三井寺造営の良材を求め太神山に入りました。夜毎に金色の光を発するこの山を不思議に思い、山頂へと登っていくと、山頂の大岩にひとりの翁が座っていました。翁は、「大師が来られるのを待...

観音さまの御遷座

西国観音霊場第十四番札所である観音堂はもとは正法寺とも呼ばれ、現在地よりもはるか山上の華の谷というところにありました。この華の谷に登るには道が険しく、また女人結界のため女性は参詣ができず、観音さまの御...

鯉になった僧 興義

平安時代の中頃、三井寺に興義という名の絵の巧みな僧がいました。興義は、仕事の合間に琵琶湖に小舟を浮かべ、漁師から買い取った魚を湖に還してやり、その魚の遊ぶさまを描くことを喜びとしていました。 あるとき...

謡曲『三井寺』

謡曲に世阿弥の作と伝えられる『三井寺』という名作があります。駿河国(静岡県)清見ケ関の女性が、子買いにさらわれたわが子を捜し訪ねて、京都・清水寺参籠の霊夢で三井寺へ参れと告げられます。 ときはあたかも...

三井寺の門たたかばやけふの月

元禄4年の八月十五夜、中秋の名月の日に、木曽塚の無明庵で月見の句会が盛大に催されます。 歌詠みにとって、旧暦八月といえば、月の歌のみ詠み、月のみ心にかけたといわれるほどの句会は盛り上がり、風狂は尽くさ...

閼伽井

金堂の近くには天智・天武・持統の三帝が御産湯に用いたという「三井の霊泉」があります。 古来より閼伽水として金堂のご本尊・弥勒さまにお供えされています。 三井寺という呼称は、人々がこの神聖な湧水がある寺...

大友与多王

近江大津宮の滅亡とともに悲運の最後をとげた大友皇子(のちの弘文天皇)。 壬申の乱により、満24歳の若さで亡くなった大友皇子には大友与多王とよばれる子供がありました。 大友与多王は父の死後、邸宅があった...

秘仏 金堂の御本尊

三井寺の金堂にお祀りするご本尊、弥勒さまです。 このご本尊は今から千三百年余り前、三井寺が創建された時に天武天皇から賜わったと伝えられていますが、絶対の秘仏となっているため、この仏様を拝したひとは誰も...

童子因縁の鐘

西国十四番札所観音堂への石段を登りつめた右手に建つ鐘楼は文化18年(1814)の 建立で、かつては、「童子因縁之鐘」と呼ばれる鐘が釣られていました。 この鐘を鋳造するに際し、三井寺の僧たちは大津の町々...

相模坊と天狗杉

三井寺の本堂・金堂の向かいには天狗杉と呼ばれる樹齢千年と伝えられる樹高約20mの老杉があります。 室町時代の初め、相模坊道了という僧が三井寺の僧坊、勧学院で密教の修行をしていたとき、ある夜、突如として...

鼠になった頼豪阿闍梨

十八明神は、三井寺を守護する神ですが、一般には「ねずみの宮さん」の呼称で人々に親しまれています。平安時代、三井寺の頼豪阿闍梨という高僧に朝廷から皇子誕生を祈願するよう勅命が下りました。 その後、祈祷の...

弁慶の引摺鐘

平安時代、田原藤太秀郷が近江の三上山の大ムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。 その後、比叡山延暦寺との争いで荒法師武蔵坊弁慶が三井寺に攻め入り、この鐘を奪...

石山詣

平安時代、貴族による石山詣が盛んになり、女流文学者も数多く石山寺を訪れたといいます。彼女たちは、石山寺への参詣や、参籠の日々を作品に書きとめ、石山の地を舞台に多くの和歌を詠んでいます。 『蜻蛉日記』の...

三鈷の松

大同元年(808)、唐での修業を終えた弘法大師は、帰国の折に師・恵果和尚から密教法具の一つである三鈷杵を賜ります。大師はその三鈷杵に願いを込め「わたしが漏らすことなく受け継いだ密教を広めるのにふさわし...

薫聖教

石山寺の寺伝で「薫聖教」と呼ばれ、代々座主によって大切に伝えられてきた一群の経巻です。第三代座主・淳祐内供自筆の聖教として国宝に指定されています。 淳祐内供は幼くして家を出、真言宗小野流の僧・観賢のも...

石山寺創建の縁起

西国三十三所観音巡礼の十三番札所としてにぎわいを見せる石山寺は、奈良時代、聖武天皇の治世に創建されたと伝えられます。 ある時、聖武天皇は大仏の造立を思いたち、僧・良弁に材料となる黄金の探索にあたらせま...

源氏物語と紫式部

紫式部は早くに母を失くし、文人であった父・藤原為時のもとで育ちました。幼少の頃より漢籍に親しみ、優れた素質を示したといわれています。長徳4年(998)頃、官吏をしていた藤原宣孝に嫁ぎますが、わずか二年...

悪源太のかくれ谷

源義朝の長男・義平は、若くして武勇のほまれが高く、「悪源太」と称されました。「悪」は強いという意味、「源太」は源家の長男の意味です。 平治の乱(1159)で、父・源義朝は平清盛との勢力争いに敗れ、京都...