薫聖教

石山寺の寺伝で「薫聖教」と呼ばれ、代々座主によって大切に伝えられてきた一群の経巻です。第三代座主・淳祐内供自筆の聖教として国宝に指定されています。
淳祐内供は幼くして家を出、真言宗小野流の僧・観賢のもとで出家し石山寺普賢院に隠遁しました。延喜21年(921)10月25日、観賢が醍醐天皇の命により高野山奥院の弘法大師廟に参入する際、淳祐も随伴することになります。御衣替式で、大師の衣に触れたところ、淳祐の手には香気がうつり、いつまでも消えることがなかったといわれています。その薫香の残る手で書写した聖教は「薫聖教」と呼ばれるようになり、この聖教もまた大師の香気を纏っていると伝えられます。

ゆかりの地
石山寺 普賢院跡(第一梅園付近)

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