豊臣秀吉 (1537-1598)

安土桃山時代の武将。貧しい家の出ながら戦国武将となり、天下統一を果たしたことで知られます。
尾張国愛智郡に足軽の子として生まれたといわれます。名は、木下藤吉郎。財も家柄も無く、針売りをして回りますが、性格は愛嬌があり、機転が効き、若くして苦労したため上昇志向と商人的な視座をあわせ持ったといわれています。やがて、織田信長に足軽として仕え、持ち前の機才により戦功を重ねていきます。次第に重用され、天正元年(1573)に北近江を与えられ長浜城主となります。藤吉郎37歳。この頃から、羽柴秀吉と名乗るようになります。同7年以来、中国毛利攻めの先鋒として活躍しますが、同10年に主君・信長が京都本能寺にて明智光秀に暗殺された報せを受けるや、急遽京都へひき返し、山崎の戦いで光秀を討ち取りました。秀吉はこの功により信長の後継者の地位を得、大阪城を築城。天正13年(1585)には関白、翌年には太政大臣となり、天皇より「豊臣姓」を賜わります。その後、大津百艘船を結成し湖上交通の支配を天下取りの足かがりとし、四国、九州につづき、天正18年(1590)に関東、奥羽を平定しついに天下統一を成し遂げるのでした。豊臣政権を樹立し、太閤検地と刀狩令によって兵農分離を完成させ、近世封建社会の基礎を確立しました。そして、二度にわたる朝鮮出兵が実を結ぶことなく、慶長3年(1598)に伏見城にてその生涯を閉じます。
大津においては、秀吉は文禄4年(1595)所領や財産を没収する「闕所」の令を三井寺に下します。三井寺の堂塔はまたたくまに解体され、延暦寺や伏見城に移築されますが、のちに秀吉の正室・北政所や徳川家康により再建、再移築されました。また、大津には秀吉ゆかりの神社や湧水などが伝わっています。

一般観覧
大津城跡・馬神神社・練貫水など

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