悪源太のかくれ谷

源義朝の長男・義平は、若くして武勇のほまれが高く、「悪源太」と称されました。「悪」は強いという意味、「源太」は源家の長男の意味です。
平治の乱(1159)で、父・源義朝は平清盛との勢力争いに敗れ、京都から東国に逃れました。義平は途中で父と別れ、再起の兵をつのるため北国へ向かいます。しかし、飛騨に着いたとき、父・義朝の死を聞いて募兵を断念し、ひとり復讐をはたすべく京都に潜入して、平清盛・重盛父子をつけねらうこととなります。
この頃、義平は石山寺のあたりに、寺の衆徒の助けをかりて隠れ住んでいたと伝えられています。そして『参考平治物語』によれば、永暦元年(1160)正月二十五日、石山寺周辺で難波三郎経房の郎等に捕らえられ、事を果たさずして六条河原で斬られ、わずか20歳の短い生涯を終えたといわれています。
現在、石山寺の山内、山門を入って西へ500mほど進んだ谷あいの、椎の大木の下に、悪源太義平の塚と伝えられる宝篋印塔が残されています。高さ1.43mで、鎌倉時代のものと伝わります。この地は、義平が隠れ住んでいたという故事により「かくれ谷」と呼ばれています。(通常非公開)

ゆかりの地
石山寺 境内(通常非公開)

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