如意越

三井寺より、如意ヶ岳を越えて京都・鹿ヶ谷に至る道です。大津から京都へ出る山越えの間道として、三井寺の僧侶などによく利用されました。また、源平争乱、南北朝の内乱といった戦乱の際には軍勢が行き交い、戦場ともなったことが『平家物語』や『太平記』などに見られます。内乱の際には京都からの脱出路ともなり、『保元物語』には、保元の乱(1156年)で敗れた崇徳上皇が三井寺へ逃れようとして「如意山」へ入ったものの、山道が険しく歩行もままならず、山越えを断念したことが記されています。鎌倉〜室町時代、三井寺は延暦寺とならび僧兵の武力をほこる大寺でした。如意越はいわば僧兵の道として開かれたともいえ、内乱の時代が終わると静けさを取り戻し、京都から三井寺への参詣道の一つとなりました。
名の由来は、三井寺の別院で、智証大師の開創といわれる「如意寺(廃寺)」です。その伽藍は、東は長等山、西は鹿ヶ谷、南は藤尾にかけての山中に広がっていたといいます。

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