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大津事件跡碑

明治24年(1891)、来日したロシア皇太子・ニコライが大津遊覧の際、警備中の巡査・津田三蔵によって斬りつけられた「大津事件」の現場に建つ石碑です。 明治政府は大国ロシアを恐れるあまり、津田を大逆罪で...

堂ノ上遺跡

近江国庁跡の南西、瀬田川を見下ろす小さな丘陵上に位置します。発掘調査で、礎石をもちいた瓦葺の建物群の跡と、特殊な間仕切りをした掘立柱建物群の跡が確認されています。この地は、東海道と信楽に通じる道の分岐...

近江国庁跡

瀬田川の東、三大寺から大江6丁目にかけての一帯に広がる国庁跡です。国庁とは、律令制下において全国68カ国に設置された役所のことで、そこでは都から派遣された国司を中心に地方政務がとり行われました。 近江...

春日山古墳群

堅田丘陵の東端に位置し、200基以上の古墳から構成される湖西地方でも有数の大規模古墳群です。この古墳群は、5世紀中頃に築かれた前方後円墳の春日山古墳にはじまり、6世紀後半に集中的に形成され、7世紀のは...

衣川廃寺跡

昭和50年(1975)に発掘調査が実施され、塔と金堂と見られる二つの建物跡と、一基の瓦窯跡が見つかっています。軒丸瓦や軒平瓦などの出土遺物から判断して、7世紀中頃に創建された滋賀県最古の寺院と見られて...

西羅古墳群

一号墳は全長46メートル、高さ7メートルの「帆立貝式」と呼ばれる特異な前方後円墳です。葺石がほどこされており、5世紀代の築造と考えられています。保存区画の南東端の階段から墳頂まで登ることができます。二...

唐臼山古墳

水明1丁目の丘陵尾根筋の上に築かれた古墳です。墳丘は流失し、破損した石室が露出しています。石室は現状で南北5.75メートル、幅1.5メートル、高さ1.7メートルが計測されています。石室内には玉石が敷か...

石亭翁登遊碑

寛政12年(1800)3月に、木内石亭の喜寿を記念して石山寺参道に建立されました。石亭は諸国をめぐって奇石を収集・研究した民間の鉱物学者で、日本考古学の祖として知られています。石山寺には白瑪瑙という珍...

なべ塚の碑

幕末〜明治維新期の探検家・松浦武四郎の愛用の鍋を埋めて建立したものです。明治16年(1883)7月の建立で、三井寺観音堂西方の台地に立ちます。 松浦は弘化元年(1844)、蝦夷地に入って全島を探検、調...

島崎藤村詩碑

明治26年(1893)、22歳の藤村は恋愛に悩んで教職を辞し、芭蕉や西行の遺跡を慕って関西へ漂泊の旅に出ました。同年2月上旬に石山寺へ詣で、『ハムレット』一冊を奉納して紫式部の霊に祈ったといいます。石...

粟津ヶ原合戦史跡顕彰碑

粟津ヶ原合戦とは、寿永3年(1184)1月20日に近江国粟津にて行われた木曽義仲と源義経らとの戦いです。さきの六条河原の戦いで敗れた木曽義仲は、北陸への逃走を目論むも道中で軍は壊滅し、粟津に着くころに...

琵琶湖岸跡の石垣

京阪石場駅から島ノ関駅にかけて、線路と湖岸道路との間に高さ50cm程の石垣が見られます。これはかつての琵琶湖岸の石垣の上部で、湖岸が埋め立てられる前はここまで水が来ていたことになります。石垣を降りるた...

旧大津陸軍墓地

明治6年(1873)、政府は徴兵令を公布し、全国の青年男子には兵役義務が課されました。同8年、編成された陸軍歩兵第九連隊が現在の御陵町付近に駐屯してきます。これ以降、大津も軍都の性格をもちますが、現在...

車石

車石とは、車のわだちを刻んだ花崗岩の切石です。文化元年(1804)から二年の歳月をかけて、大津八丁から京都三条大橋までの三里(約10km)の道を牛車専用道に整備するために敷設されました。しかし明治以降...

大津宿本陣跡

本陣とは、江戸時代に宿場におかれた大名や公家などのための宿泊施設です。大津宿には二軒の本陣があり、肥前屋九左衛門宅(御幸町1丁目)ともう一軒がこの地にあった大坂屋嘉右衛門宅です。大津は北国街道と東海道...

札の辻

札の辻は、北国街道と東海道の分岐点にあたります。その名の由来は、ここに江戸幕府の法令を記した「高札」が立てられていたことによります。札の辻には宿場の人足や伝馬を調達する人馬会所がおかれ、また八丁筋には...

旧膳所藩烈士の碑

昭和7年(1932)10月21日に本多神社境内に建立されました。幕末の動乱期に「将軍暗殺の計画がある」という無実の罪で逮捕され、死罪が申し渡された膳所藩の尊皇攘夷派11名と、脱藩の勤王志士3名を含めた...

芭蕉翁経塚の碑

安永9年(1780)に、近津尾神社境内の幻住庵旧跡の前に建立されました。義仲寺の復興に努めたことでも知られる僧・蝶夢の門人達が、芭蕉供養のために小石ひとつに一文字ずつを書写した「一石一字の法華経」を埋...

木曽義仲遺跡の碑

天保3年(1832)12月、木曽義仲(=源義仲)の650年忌にあたって、義仲の末裔で江戸幕府の侍医・源義長が義仲寺境内に建立したものです。高さ1.7m、「朝日将軍木曽源公遺跡之碑」と題額し、撰文が刻ま...

瀬田城跡

瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川であり、そこに架かる瀬田の唐橋は古代より交通・軍事上の重要戦略拠点とされてきました。瀬田城は、この橋のたもとに築かれたお城で、代々山岡氏が城主をつとめました。 織田信...

今井兼平の墓

今井兼平は平安時代末期の武将です。乳兄弟にあたる木曽義仲に忠義をもって仕えたことで知られています。寿永3年(1184)、源義経らの軍に追われ、義仲とともに粟津の地へ逃れたものの、義仲が討たれたことを知...

横尾山一号古墳

横尾山古墳群は、7世紀前半の古墳時代の終わりに築かれたものと考えられています。もとは瀬田川の左岸、瀬田丘陵の西端に位置し、30基の古墳群からは須恵器や鉄鈴、和同開珎などが出土しています。京滋バイパスの...

国分大塚古墳

瀬田川西岸に近い国分一丁目にある前方後円墳です。全長45mで、前方部と後円部のそれぞれに横穴式石室を設けています。この古墳は湖西地方の前方後円墳としては最も新しく、6世紀中頃の築造と考えられます。 現...

穴太廃寺跡

大津京関連遺跡の一つで、大津京の北に位置する穴太で発見された寺院跡です。 昭和59年(1984)の発掘調査で、建立時期の違う二つの伽藍配置をもつことが明らかになりました。創建当初の伽藍配置は詳細不明な...

南滋賀廃寺跡

大津京関連遺跡の一つとされる寺院跡です。 昭和初期に、大津京の位置を究明する目的から崇福寺跡とともに発掘調査が実施されました。飛鳥(奈良県)の川原寺と同じ伽藍配置で、中門を入ると東側に塔、西側に西金堂...

崇福寺跡

崇福寺は、天智天皇の勅願により大津京鎮護を目的として建立された寺院です。大津京遷都の翌年(668)の建立と考えられ、近年では、大津京の所在地を解き明かす鍵としても注目されてきました。 京阪・滋賀里駅か...

百穴古墳群

滋賀里の山中、志賀越えの道沿いに残る古墳群です。全体的に削られたり流失したりしていますが、すべてドーム状の横穴式石室をもつ直径10m前後の小円墳とみられます。石室の構造から6世紀後半頃のものと考えられ...

幻住庵跡

貞享2年(1685)、初めて大津を訪れた松尾芭蕉は、以降、大津の風光をこよなく愛し、多くの門人をもつことになります。幻住庵は、門人の一人・菅沼曲水が叔父の庵を改修し、芭蕉に提供したもので、近津尾(ちか...

膳所城跡

膳所城は慶長6年(1601)の築城で、別名を石鹿(せきろく)城といいます。本丸が琵琶湖に突き出た水城の構造をもち、膳所藩主・本多家6万石の居城としてその雄姿を誇りましたが、明治3年(1870)に廃城と...

大津京跡

大津京(大津宮)は、天智天皇が667年に遷都し、5年後の672年に壬申の乱で滅びた短命の都です。その位置はながらく論議されてきましたが、昭和49年、錦織の地で大規模な掘立柱建物跡が発見され、これが内裏...

皇子山古墳群

皇子山古墳群は、滋賀県でも類例の少ない前方後方墳(1号墳、4世紀後半)と円墳(2号墳、3世紀末頃)からなります。現在、1号墳の東斜面には築造当時のような葺石が敷かれ、古墳公園としての整備も進み、古墳の...

弘文天皇陵

672年、壬申の乱で天智天皇の弟・大海人皇子に敗れた大友皇子(天智の皇子)は、山前(やまさき)の地で自殺したと記録にはあります。その後、大友皇子はながらく天皇と認められなかったものの、明治3年(187...

長安寺宝塔

旧東海道から西へ入った長安寺境内に建つ石造の宝塔。高さ約3.3m。八角形の台石の上につぼ型の塔身を置き、その上に六角形の笠石をのせるという、他に例を見ない形式をとる。万寿2年の『関寺縁起』によれば、こ...

茶臼山古墳

茶臼山(155m)中腹にある県下第2位の規模を誇る大古墳で国指定の史跡。 彦坐王とも大友皇子一族の墓ともいわれるが、被葬者については明らかではない。_墳丘全面には葺石が敷かれ、円筒埴輪が巡り、後円部頂...

逢坂山関跡

京阪電鉄大谷駅の東約100m、国道1号沿いに「逢坂山関跡」の記念碑が立つ。 逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝であった。古くから貴族や武将をはじめ...

大津城跡

安土・桃山時代、豊臣秀吉が坂本城にかわり新たに築城した大津城。 現在、城跡碑が立っているあたりが本丸の跡で、広大な面積を持っていたと考えられる。昭和55年(1980)に城郭の石垣と思われる遺構が発掘さ...

筒井浄妙塚

治承4年(1180)、後白河法皇の皇子・以仁王と源三位頼政が平清盛に反旗を翻したときに従い、宇治橋の合戦で奮闘した三井寺の僧兵・筒井浄妙房の古跡と伝える。その奮戦ぶりは『平家物語』の「橋合戦」に描かれ...

三尾影向石

勧学院の四つ辻から山手に続く参道を登っていくと井筒形の石の囲いのなかに大きな石が鎮座している。この磐座の上に三尾明神が降臨するといわれ、三尾影向石と呼ばれている。三尾明神は長等山の地主神で、三井寺南院...

松尾芭蕉句碑

近江の地をこよなく愛した松尾芭蕉(1644~1694)は、元禄4年(1691)仲秋の名月の日、膳所の義仲寺無名庵で開かれた句会で「三井寺の門敲かばや今日の月」の名句を残している。平成6年(1994)1...

遊鬼境

石山寺の経典・聖教の収集・整備に尽力した学僧朗澄律師の偉業を偲ぶ庭園で、平成11年(1999)に造られました。朗澄律師は、自分の死後は鬼となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、律師が亡くなった後に弟子...

しじみ貝塚碑

近畿地方を代表する縄文時代早期の遺跡「石山貝塚」を記念する碑。この貝塚一帯から住居跡とともに人骨や石器・骨角器・縄文土器が出土しています。...

紫式部像

石山寺参籠の折に『源氏物語』の着想を得たと言われる紫式部の銅像。境内の奥に広がる源氏苑の一角にあります。...

西国三十三所観音(石仏) (補陀落山)

観音菩薩の住地である「補陀落山」と刻まれた石碑から、無憂園沿いの山道を登っていくと、西国三十三所札所観音霊場の観音像が札所順に配されており、気軽に西国巡礼をすることができます。...

紫式部供養塔(三重宝篋印塔)

経蔵のすぐそばに、松尾芭蕉の句碑と並んで立っており、紫式部供養塔と伝わります。宝篋印塔の笠を三つ重ねた珍しい層塔で、初重の四面に仏像が浮き彫りにされており、相輪の代わりに宝珠を冠っています。高さは2....

芭蕉の句碑

芭蕉が詠んだ句「曙はまだむらさきにほととぎす」を芭蕉自らが記した「芭蕉自画賛句」(石山寺所蔵)と同内容の文字を刻む、高さ1.7mの円柱。多宝塔へ続く階段の下にあり、紫式部供養塔と並んで立っています。句...

宝篋印塔

重要文化財御影堂の前、毘沙門堂の向かって左に位置し、高さ約182cm、基礎から相輪まで完全にそろっており、造立年代は明らかでありませんが、様式からみて南北朝時代の作と思われます。基礎・塔身・笠などの比...

那須与一地蔵尊

本堂へ通じる大坂(石段)の下の小さな祠に安置される「那須与一地蔵」は、境内の参道の整備中に、本堂正面下あたりから発見され、現在の場所に祀られています。『平家物語』中の扇の的を射抜く話で有名な那須の与一...

源頼朝・亀谷禅尼供養塔

多宝塔の北西に並んで立つ2基の宝篋印塔は、右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられています。 亀谷禅尼は源頼朝の第二の姫の乳母であり、石山寺の毘沙門天に戦勝祈願をした中原親能の妻です。剃髪後石山寺に...

霊仙三蔵碑

霊仙は、近江坂田の出身で、唐で仏典の翻訳に携わった唯一の日本僧です。このことは、石山寺一切経の中の「大乗本生心地観経」巻第一の巻末から知ることができます。その縁で、霊仙の偉業を偲ぶため、昭和55年4月...

天智天皇の石切り場跡

本堂正面のすぐ下方にある石切り場跡には、天然記念物「硅灰石」が道沿いに露出しており、15か所の採石痕があります。近年、ここから切り出された石が、飛鳥の川原寺中金堂(7世紀前半~半ば頃創建か)の礎石に使...

比良明神影向石

志納所を過ぎ、明王院の前に位置する比良明神影向石は、良弁僧正と比良明神が出会った場所とされています。 「石山寺縁起絵巻」によれば、東大寺の僧良弁僧正は、聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命...