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朝瓜祭り

7月22、23日の両夜に行われる日御前神社の祭礼で、朝瓜を神前に供えるところに特徴があります。 日御前神社は、天武天皇の長子・大津皇子の第三の姫宮である瓜生姫が創建したものと伝わります。本殿には、瓜生...

膳所総祭り

本多氏六万石の城下町であった膳所地区に鎮座する石坐、和田、膳所、篠津、若宮八幡による五社合同の例祭です。各神社での例祭、五社の神輿の合同渡御、各神社神輿の氏子町内への渡御という順で進められます。 かつ...

寒川辰清 (1697-1739)

江戸時代中期の儒者、国学者。 元禄10年(1697)に京都油小路出水の中邨土佐守の二男として生まれ、のち膳所藩士・寒川辰成の婿養子となりました。膳所藩主・本多康命、康敏の二代にわたって藩主の侍講(学問...

大津事件跡碑

明治24年(1891)、来日したロシア皇太子・ニコライが大津遊覧の際、警備中の巡査・津田三蔵によって斬りつけられた「大津事件」の現場に建つ石碑です。 明治政府は大国ロシアを恐れるあまり、津田を大逆罪で...

膳所焼美術館

膳所焼は、小堀遠州の七窯の一つに数えられる焼物で、主に茶入や水指などの茶器として製作・使用されてきました。寛永年間(17世紀初期)の記録にも見られることから、膳所藩主の御用窯として出発したものと考えら...

琵琶湖

滋賀県の中央にある日本最大・最古の湖です。面積は約670平方キロメートルで、最大水深は104メートル、湖岸線延長は240キロメートルに及びます。大小約460本の河川が流れ込み、瀬田川と琵琶湖疏水から流...

明智光秀 (生年不詳-1582)

安土桃山時代の武将。子に、細川忠興の妻となったガラシャがいます。 美濃国の生まれといわれ、はじめ越前の朝倉義景に仕え、のち織田信長に仕えます。光秀は武将としてだけではなく儀礼、故実に通じ、連歌や茶の湯...

豊臣秀吉 (1537-1598)

安土桃山時代の武将。貧しい家の出ながら戦国武将となり、天下統一を果たしたことで知られます。 尾張国愛智郡に足軽の子として生まれたといわれます。名は、木下藤吉郎。財も家柄も無く、針売りをして回りますが、...

徳川家康 (1542-1616)

江戸幕府初代征夷大将軍。のちに265年間つづく徳川氏政権の基礎を固めたことで知られます。 三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれます。幼少から隣国の織田、今川氏の人質として育ちますが、永禄3年(1...

松尾芭蕉 (1644-1694)

江戸時代前期の俳人。俳聖・松尾芭蕉としてひろく知られます。 寛永21年(1644)伊賀国上野(三重県上野市)に生まれ、生涯を旅に過ごし、『奥の細道』『更科紀行』など俳文学の名作を生みました。 芭蕉と大...

弘法大師空海 (774-835)

平安時代初期の高僧で、真言宗の開祖。入唐八家のひとり。日本仏教界のスーパースターとして広く知られます。 讃岐国多度郡に生まれ、15歳で京都へ遊学。18歳で高級官僚養成のための大学に入りますが、まもなく...

源義仲(木曽義仲) (1154-1184)

平安時代末期の武将。 誕生の翌年に父・源義賢が勢力争いに巻き込まれ敗死し、乳母の夫・中原兼遠を頼って信濃国の木曽に移ります。兼遠の四男で、のちに「木曽の四天王」と称される今井兼平とはこの木曽の地で出会...

蓮如上人 (1415-1499)

室町時代の僧で、浄土真宗中興の祖。 蓮如は本願寺第七世・存如を父に、応永22年(1415)に大谷本廟で生まれました。しかし蓮如が生まれた頃、本願寺は荒れるがままの状態だったため、はじめ青蓮院の尊応に学...

織田信長 (1534-1582)

戦国、安土桃山時代の武将。戦国の乱世に終止符を打ち、天下統一への地盤を固めた英傑として知られます。 尾張国に生まれ、性質は剛腹で人の意表をつく行動が多く、「尾張のおおうつけ」とあだ名されました。父・信...

源頼朝 (1147-1199)

鎌倉幕府初代征夷大将軍。鎌倉〜江戸時代までつづく「武家政権」を樹立したことで知られます。妻は北条政子。異母弟に源義経がいます。 ときは平安時代末期、貴族の権力闘争に武士が加勢するようになり、その二大勢...

天智天皇 (626-671)

日本の第三十八代天皇。歴代天皇のなかでも最も著名な人物として知られます。 推古天皇34年(626)に奈良・飛鳥の地に生をうけました。即位前は中大兄皇子。645年、中臣鎌足とはかり、当時権力を握りつつあ...

慶祚阿闍梨の入定窟

慶祚阿闍梨は、平安時代中期の僧で、天台宗の山門(延暦寺)と寺門(園城寺)分立後の園城寺を隆盛に導き、園城寺五別所のうちの尾蔵寺と微妙寺を開いたことで知られています。寛仁2年(1018)12月22日、7...

還来神社の由緒

奈良時代の官人・藤原百川の娘としてこの地に生まれた旅子は、長じて、比良山南麓の最勝寺の開祖・静安について仏道に帰依しました。その後京都へ移り、28歳のとき桓武天皇の夫人となり、淳和天皇を生みます。しか...

辻の地蔵

真野町中村の中村会館から100メートルほど東方の四つ辻に、「辻の地蔵」と呼ばれるお地蔵さんが祀られています。かつて、女性が厄年(33歳)に子を産んだ場合には、一度その赤ん坊を竹の箕に入れて、この辻の地...

浮御堂の草創

天和3年(1683)、堅田の住人・中村重吉が著した『堅田物語』には、浮御堂草創のいきさつが次のように描かれています。 一条天皇の治世(986-1011)のことです。比叡山横川の高僧・恵心僧都源信が山上...

おとせの浜

源平争乱の時代のことです。堅田の出身で、京都の源氏のお屋敷に奉公していた「おとせ」という女性がいました。おとせは、争乱のなか、源氏の旗印である白旗を守って京都から大津へ逃れましたが、追手の軍勢がせまり...

春日神社

縁起によれば、久寿元年(1154)に奈良の春日大社の分霊を勧請したのが始まりとされます。本殿は入母屋造、文保3年(1319)の建立で、重要文化財に指定されています。二間社であるため本殿中央に柱が位置す...

旧南郷洗堰

琵琶湖から流れ出る唯一の河川・瀬田川は、古来より水量の調整が難しく、幾度も水害に見舞われてきました。旧南郷洗堰は、明治29年(1896)の琵琶湖大洪水を契機に、翌年に日本人技術者によって建設されました...

堂ノ上遺跡

近江国庁跡の南西、瀬田川を見下ろす小さな丘陵上に位置します。発掘調査で、礎石をもちいた瓦葺の建物群の跡と、特殊な間仕切りをした掘立柱建物群の跡が確認されています。この地は、東海道と信楽に通じる道の分岐...

近江国庁跡

瀬田川の東、三大寺から大江6丁目にかけての一帯に広がる国庁跡です。国庁とは、律令制下において全国68カ国に設置された役所のことで、そこでは都から派遣された国司を中心に地方政務がとり行われました。 近江...

出島の灯台

高さ約8メートルの木造の灯台です。この辺りは古くから船大工が居住し、船の修理や風待ちのための船の出入りが盛んでした。また、琵琶湖の最狭部であることから、岩礁も多く船の事故が絶えなかったため、明治8年(...

大津別院

浄土真宗大谷派、京都・東本願寺の別院です。慶長5年(1600)、教如による創建と伝わります。現在の本堂は慶安2年(1649)、書院は寛文10年(1670)の建築で、ともに重要文化財に指定されています。...

宮本家住宅主屋

建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの通訳を務めた宮本文次郎の住居として、昭和5年(1930)に建築された洋風住宅です。設計はヴォーリズ建築事務所。構造は木造二階建て、寄棟造で、屋根はスペイン瓦葺です...

龍谷大学瀬田学舎樹心館

建物は、明治18年(1885)に大阪南警察署庁舎として建築されたものです。その後二度の移築を経たのち、平成6年(1994)に現在地に礼拝堂として移築され、名称も「樹心館」と改められました。構造は木造二...

神田神社

祭神は、彦国葺命です。鳥居をくぐり、池の側の参道を進んださきに、緑の樹林を背景として本殿が建ちます。本殿は三間社流造、檜皮葺の建物で、建徳元年(1370)に造営されたことを示す棟札が見つかっています。...

春日山古墳群

堅田丘陵の東端に位置し、200基以上の古墳から構成される湖西地方でも有数の大規模古墳群です。この古墳群は、5世紀中頃に築かれた前方後円墳の春日山古墳にはじまり、6世紀後半に集中的に形成され、7世紀のは...

衣川廃寺跡

昭和50年(1975)に発掘調査が実施され、塔と金堂と見られる二つの建物跡と、一基の瓦窯跡が見つかっています。軒丸瓦や軒平瓦などの出土遺物から判断して、7世紀中頃に創建された滋賀県最古の寺院と見られて...

西羅古墳群

一号墳は全長46メートル、高さ7メートルの「帆立貝式」と呼ばれる特異な前方後円墳です。葺石がほどこされており、5世紀代の築造と考えられています。保存区画の南東端の階段から墳頂まで登ることができます。二...

満月寺

正式には、海門山満月寺といいます。臨済宗大徳寺派の寺院で、平安時代に、比叡山横川の恵心僧都源信が琵琶湖の湖上安全と衆生済度のため、湖上に浮御堂を建立したのが始まりとされています。境内の客殿は宝暦4年(...

浮御堂

平安時代、比叡山横川の恵心僧都源信が、湖上交通の安全と人々の救済を願って建立したと伝わります。湖上に浮かぶ浮御堂の美しさは、近江八景「堅田の落雁」としても広く知られ、松尾芭蕉をはじめとした多くの文人が...

堅田の落雁

近衛信尹が選定した湖国近江を代表する8つの景勝地「近江八景」。そのひとつ「堅田の落雁」は、湖に突き出してたつ満月寺の浮御堂と、その中天に列をなして群れ飛ぶ雁の姿を主題としています。...

日本基督教団堅田教会

昭和5年(1930)竣工、ヴォーリズ建築事務所の設計による教会堂です。単廊式の会堂で、会堂部にはキングポストの簡潔な小屋組をあらわします。正面中央上部にチューダーアーチの4連窓を開け、右手にトンガリ屋...

唐臼山古墳

水明1丁目の丘陵尾根筋の上に築かれた古墳です。墳丘は流失し、破損した石室が露出しています。石室は現状で南北5.75メートル、幅1.5メートル、高さ1.7メートルが計測されています。石室内には玉石が敷か...

小野篁神社

小野神社の境内末社で、祭神に平安時代の歌人であり優れた官僚であった小野篁を祀ります。社伝によれば、暦応2年(1339)に佐々木氏頼が篁・道風の両社を建立したとされています。本殿は、暦応4年の棟札が残る...

小野道風神社

小野神社から南へ400mほど離れた飛地境内にあり、小野道風を祭神として祀ります。暦応4年(1341)の棟札が残る本殿は、全国でも珍しい切妻造の本殿で、重要文化財に指定されています。道風は小野篁の孫にあ...

伊豆神社

祭神は、大山祇命で、伊弉諾尊と伊弉冉尊とのあいだに生まれた神様として知られています。社殿によれば、寛平4年(892)、諸国を行脚していた延暦寺の僧・尊意僧正が、伊豆三島明神をこの地に勧請したことに始ま...

天皇神社

祭神は、素盞鳴尊です。社伝によれば、康保3年(966)に京都・八坂神社から牛頭天王を勧請して創始したと伝え、もとは「和邇牛頭天王社」と呼ばれていましたが、明治時代に「天皇神社」と改めました。本殿は正中...

還来神社

藤原旅子を祭神として祀ります。旅子はこの地に生まれ、のちに桓武天皇の夫人となり京都へうつり、淳和天皇を生みますが、30歳という若さで京都・西院の地で亡くなります。旅子は死後、遺言によって生まれ故郷の梛...

小野妹子神社

唐臼山古墳上にある、小野妹子を祀った神社です。妹子は、近江国滋賀郡小野の出といわれています。推古15年(607)、聖徳太子に登用され、最初の遣隋使として大国・隋との対等な外交交渉を切り拓くべく中国に渡...

小野神社

祭神は、小野氏の祖である天足彦国押人命と米餅搗大使主命で、奈良時代から平安時代にかけて小野氏の氏神として栄えました。米餅搗大使主命は日本で初めて餅つきをしたと伝えられており、菓子作りの神様としても信仰...

明王院

貞観元年(859)、延暦寺の僧で天台修験の創始者・相応和尚による創建と伝わります。 相応は、かねてより生身の不動明王を拝したいとの願いをもって、葛川谷に深く分け入り、草庵を結び修行をつんでいました。あ...

逆さ観音

上田上桐生にある、逆さになった観音菩薩の磨崖仏です。 下流の「オランダ堰堤」建設の際に、石材を採掘したため背後が削られ、逆さに倒れてしまったといわれています。「身を削られ、逆さになっても、地元を大洪水...

オランダ堰堤

田上山一帯は、古くからヒノキの良材の採れる山として知られ、藤原京や平城京の造営、東大寺の建立の際に多量の材木が切り出されました。そのため花崗岩で形成される地表はむきだしとなり、かねてより治山・治水が最...

地主神社

貞観元年(859)、延暦寺の僧・相応和尚がこの地に明王院を建立した際、その鎮守として祀ったのが地主神社のはじまりと伝わります。 祭神は国常立尊ですが、この地の地主神である思古淵明神も祀られています。思...

滋賀県立美術館

1984年に滋賀県立近代美術館として開館しました。収蔵点数は1,808件(2021年3月現在)と県立の美術館としては比較的小さい規模ではありますが、日本画家の小倉遊亀や染織家の志村ふくみのコレクション...

大津市埋蔵文化財調査センター

市内の遺跡の調査を行い、出土した遺物などの収蔵、保管、調査、研究をする施設です。またその成果を、センター内の展示室で「発掘調査成果速報展」として公開するほか、さまざまな講座や体験学習を実施しています。...

滋賀県埋蔵文化財センター

昭和55年(1980)4月1日の開所以来、県下各地の遺跡や遺物を調査・研究するとともに、発掘された遺物や調査記録を整理・保管しています。また、埋蔵文化財への理解と愛護精神を深めてもらうため、『埋文ニュ...

大戸川の千石岩

大戸川の流れが大きく曲がっている場所に、「千石岩」と呼ばれる巨大な岩があります。この岩に水が当たることによって、堤防の決壊が免れ、千石(およそ2,500俵)の米が助かることからこのように呼ばれています...

牛尾越

大津市国分から牛尾山を経て、京都市の山科区小山へ至る道です。古くから牛尾山中の牛尾観音(法厳寺)への参詣道として利用され、現在は絶好のハイキングコースにもなっています。牛尾観音は、京都・清水寺の音羽の...

法楽寺

妙見山の麓にある天台宗の寺院です。平安時代、文徳天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建したと伝わります。本尊の木造薬師如来坐像は12年に一度開扉される秘仏で、重要文化財に指定されています。...

富川磨崖仏(耳だれ不動)

鹿跳橋から信楽方面へ3km、道路の左手下の小さな不動橋を渡り、山道を20分ほど登ると磨崖仏の前に出ます。高さ20mもの岩壁に、阿弥陀如来を中央にして観音・勢至の両菩薩が刻まれ、阿弥陀三尊をなしています...

長等山の千石岩

「千石岩」の名の由来はさまざまで、巨岩が米俵千石(約2,500俵)を積み上げたような形だからとも、岩面が米俵千石を並べられるくらい広いからとも、また、まだ琵琶湖が今よりもっと広かった頃、この岩に千石積...

諏訪神社

関津の丘の頂上部に鎮座しています。祭神は建御名方神です。本殿は一間社流造、拝殿は入母屋造で、あたかも露出した巨石の上に乗るように建てられており、古くから巨石信仰があったものと考えられています。関津の地...

八幡神社

祭神は、応神天皇です。天暦2年(948)に椋本明神を山城国から勧請したことにはじまります。 「正平七年(1352)」の年紀のある棟札には、もとは別々の神社を衆議によって一社に合祀したと記されており、中...

浄土寺

鹿跳橋の東、三方を山に囲まれた静寂の地にあります。ここ大石は「忠臣蔵」で有名な大石家発祥の地であり、浄土寺は大石家の菩提寺でもあります。堂内には本尊・阿弥陀仏が安置され、その脇に大石家の守本尊であった...

佐久奈度神社

社記によると、天智天皇8年(669)に、大津宮の右大臣・中臣連金がこの地で祓を行い、社殿を建てたのにはじまるといいます。以後、この地は唐崎とならび、「七瀬之祓所」の一つとして知られるようになります。現...

練貫水

大練寺の境内には、かつて「練貫水」と呼ばれた名水が湧き出ていました。大津宮を開いた天智天皇の御衣を練った(生絹を煮てしなやかにした)ことからこの名がおこったといわれています。豊臣秀吉も大練寺を訪れ、こ...

犬塚の欅

浄土真宗発展の礎を築いた蓮如上人が、比叡山の僧兵たちによる真宗迫害の難から逃れ大津へおちのびたときのこと、蓮如をなきものにしようと企む者たちが、上人の食膳に毒をもりました。そうとは知らぬ上人が、まさに...

弘法大師と立木観音

弘仁6年(815)、弘法大師空海が諸国を行脚していたとき、大石のあたりで立木山の山腹に光を放つ霊木を見つけました。「これも仏様のお導きに違いない」と、大師はその霊木に向かって進もうとしましたが、眼前に...

多賀花・善平衛の比翼塚

むかし、大津の柴屋町遊郭に多賀花という遊女がいました。呉服屋の手代・善兵衛と恋に落ちましたが、手代という身では遊女の身請けなど出来るはずもありませんでした。二人は所詮、この世では添われぬものとあきらめ...

大日山と乳の池

伝説によると、むかし湖北の竹生島には三つの島があり、その一つが琵琶湖から瀬田川に入り、流れ着いて陸地となったのが大日山であるといわれています。「大日山」の名の由来は、奈良時代の僧・行基が、この山全体を...

明智左馬之助の湖水渡り

天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君・織田信長を京都本能寺に討ちます。そこからわずか十日ばかりの後、同月13日、光秀は山崎合戦で羽柴秀吉に敗れます。このとき、安土城を占拠していた光秀の娘婿・...

俵藤太と大百足退治

ある日のこと、藤原秀郷(=田原藤太)が瀬田の唐橋を渡っていると、橋の中ほどに長さ二〇丈(約60m)にもおよばんとする大蛇が横たわっていました。皆が大蛇を恐れ橋を通れず困っているなか、秀郷は平然とその背...

へそ石

奈良時代に造営された保良宮の礎石と伝える石です。地元では雨乞い祈願に用いられ、「雨壷に願かけて、へそ石焼くと雨が降る」との言い伝えが残されています。「雨壷」とは雨壷神社のことで、現在は近津尾神社の境内...

雲住寺

三上山の大百足退治で有名な藤原秀郷(=俵藤太)ゆかりの寺院です。応永15年(1408)10月14日、秀郷より十四代目の子孫である蒲生郡小御門城主・蒲生高秀によって、秀郷追善供養のお寺として建立されまし...

田上不動寺の開創

859年、智証大師円珍は三井寺造営の良材を求め太神山に入りました。夜毎に金色の光を発するこの山を不思議に思い、山頂へと登っていくと、山頂の大岩にひとりの翁が座っていました。翁は、「大師が来られるのを待...

立木観音(立木山安養寺)

鹿跳渓谷を望む立木山の山腹、800段の石段の先にある寺院です。 弘仁6年(815)、弘法大師がこの地を訪れたとき山中に光る霊木を見つけ、その霊木に立木のまま観音像を刻み、一堂を建立したことが始まりと伝...

大練寺

創建は平安時代の貞観18年(876)、円海和尚が開いたのが始まりと伝わります。当初は天台宗の寺院でしたが衰退の後、慶長年間(1596~1615年)に再興され曹洞宗に改宗しています。境内には、天智天皇の...

安養寺

貞観4年(862)に天台寺門宗の開祖・智証大師によって開かれ、のち浄土真宗に改められたと伝わります。蓮如上人の難を救ったとされる「身代わり名号石」の旧跡地として、とくに真宗の人々の信仰を集めます。本尊...

華階寺

浄土宗の寺院で、天文元年(1532)に僧・西念が藤原秀郷館の旧地と伝える地に建立したのが始まりとされています。境内には、三上山の大百足退治の伝説で名高い藤原秀郷(=俵藤太)ゆかりの「月見の石」と「矢の...

田上不動寺

太神山の頂上近くにある天台寺門宗の寺院で、正式名称は「太神山不動寺」といいます。平安時代初期の貞観元年(859)、三井寺を再興した智証大師円珍によって創建されました。本尊は円珍作の不動尊像です。重要文...

粟津ヶ原合戦史跡顕彰碑

粟津ヶ原合戦とは、寿永3年(1184)1月20日に近江国粟津にて行われた木曽義仲と源義経らとの戦いです。さきの六条河原の戦いで敗れた木曽義仲は、北陸への逃走を目論むも道中で軍は壊滅し、粟津に着くころに...

本多神社

祭神は、本多家中興の祖と仰がれる本多忠俊、忠次、康俊、俊次の四柱で、このうち康俊と俊次が膳所藩主に就任しています。旧膳所藩士など有志によって明治16年(1883)に建立されました。神紋は本多家の家紋「...

秋葉神社

祭神は加具都智命と大国主命の二神です。同社の立つ丘陵は茶臼山古墳と呼ばれる4世紀末から5世紀初め頃の前方後円墳で、全長は122.5mと県下第二位の規模を誇ります。また同社は、江戸時代に京都御所の火の番...

琵琶湖岸跡の石垣

京阪石場駅から島ノ関駅にかけて、線路と湖岸道路との間に高さ50cm程の石垣が見られます。これはかつての琵琶湖岸の石垣の上部で、湖岸が埋め立てられる前はここまで水が来ていたことになります。石垣を降りるた...

旧大津陸軍墓地

明治6年(1873)、政府は徴兵令を公布し、全国の青年男子には兵役義務が課されました。同8年、編成された陸軍歩兵第九連隊が現在の御陵町付近に駐屯してきます。これ以降、大津も軍都の性格をもちますが、現在...

鹿跳渓谷

琵琶湖から南流する瀬田川は、田上関津町を過ぎるあたりから下流の鹿跳橋のあたりまで、両側に山がせまっています。このため川幅は非常にせまく、急流に洗われた岩は変化に富むものとなっていて、水瓶のような小さな...

大津算盤

大津算盤は、東海道筋の大谷町から追分町までのあいだで大津絵や縫針などとともに、大津を代表する特産品のひとつとして売られていました。大津算盤の由来は、慶長17年(1612)に長崎奉行・長谷川藤広にしたが...

旧逢坂山トンネル

全長664mのトンネルで、京都=大津間に鉄道が開通した明治13年(1880)の完成です。当時、鉄道の敷設工事は英国人の指導をあおぐことが一般的でしたが、このトンネルは日本人のみの手で施工された国内最初...

車石

車石とは、車のわだちを刻んだ花崗岩の切石です。文化元年(1804)から二年の歳月をかけて、大津八丁から京都三条大橋までの三里(約10km)の道を牛車専用道に整備するために敷設されました。しかし明治以降...

小舟入の常夜燈

江戸時代の大津港には、いくつもの「関」と呼ばれる荷揚げの場がありました。多くの船が発着し、その湖岸には航路の目印となる常夜燈が立てられていました。小舟入の常夜燈は、文化5年(1808)の建立で、高さは...

大津宿本陣跡

本陣とは、江戸時代に宿場におかれた大名や公家などのための宿泊施設です。大津宿には二軒の本陣があり、肥前屋九左衛門宅(御幸町1丁目)ともう一軒がこの地にあった大坂屋嘉右衛門宅です。大津は北国街道と東海道...

如意越

三井寺より、如意ヶ岳を越えて京都・鹿ヶ谷に至る道です。大津から京都へ出る山越えの間道として、三井寺の僧侶などによく利用されました。また、源平争乱、南北朝の内乱といった戦乱の際には軍勢が行き交い、戦場と...

小関越

逢坂越の北側の山中を、三井寺町から藤尾奥町へと抜ける間道です。およそ4kmの短い間道ではありますが、古代より京都と近江を結ぶ道として頻繁に利用されてきました。小関越の名称は、逢坂越の「大関」に対してそ...

札の辻

札の辻は、北国街道と東海道の分岐点にあたります。その名の由来は、ここに江戸幕府の法令を記した「高札」が立てられていたことによります。札の辻には宿場の人足や伝馬を調達する人馬会所がおかれ、また八丁筋には...

山中越

滋賀里から志賀峠を越え、山中町を経て、京都・北白川へ至る道です。「志賀の山越」とも呼ばれ、大津と京都をむすぶ最短路として平安時代から利用されてきました。『古今和歌集』など多くの和歌集に詠まれ、近江の歌...

馬神神社

「興生相生大神宮」とも呼ばれ、もとは大津宿の人馬を調達する人馬会所の敷地内にあったもので、明治43年(1910)に現在地の長等神社境内に移されました。社伝によると、寛永年間(1624~1644)に牛馬...

彦田稲荷神社

この地より湖岸側は、江戸時代に彦根藩の蔵屋敷「佐和蔵」があったところで、当社はその邸内に祀られていたと伝えられています。廃藩後も引き続き祀られていましたが、戦後、現在地に移されました。祭神は彦田稲荷大...

蛭子神社

祭神は、蛭子尊です。当社は民家と民家との間の露地に鎮座し、入口には鳥居と立格子の扉を配し、奥に一間社流造の本殿が建ちます。由来は不詳ですが『大津市志』によると、かつて坂本の榊宮社の神木が倒れ、その木か...

倭神社

赤塚古墳(5世紀代)の墳丘上に建つことから、「赤塚大明神」の名でも知られています。文献史料がほとんど残っておらず、由緒は不明ですが、祭神は天智天皇の皇后・倭姫と伝えます。これは赤塚古墳の被葬者が倭姫だ...

宇佐八幡神社

祭神は応神天皇で、近江神宮の西側にあたる宇佐山の中腹に鎮座します。三井寺の『寺門伝記補録』によると、治暦元年(1065)、源頼義が自ら帰依していた行観僧正の協力を得て、宇佐山に宇佐八幡宮を勧請したと伝...

粟津神社

祭神は、大国主命と田中恒世、そして粟津開発の祖・大導寺田端之介の三神です。膳所の総社として信仰を集めます。 恒世神は、陽炎神とともに粟津の地に降臨した神で、田圃の中に天降ったことから「田中恒世」と呼ば...

戸隠神社

古来、平津村の鎮守として崇敬されてきた神社です。平安時代の中期に信濃国戸隠大明神を勧請したという伝えがあります。祭神は、天手力男神で、この神は記紀神話にも登場し、天照大神の隠れた天岩戸の扉をひらいたと...

山上不動堂

元慶年間(877〜885)、三井寺の祖・智証大師円珍によって開基されたお堂です。正式には「山上浪切不動尊」といい、その本尊はお堂の奥にひっそりと佇む磨崖仏です。この磨崖仏は「仁治三年(1242)」の銘...

早尾神社

長等山の中腹に鎮座し、入母屋造の本殿に建速素戔嗚尊を祀ります。また相殿には猿田彦を、向かって左の児大友社には大友皇子の子・大友与多王を祀ります。社伝によれば、貞観年間(859〜877)、智証大師円珍が...

旧膳所藩烈士の碑

昭和7年(1932)10月21日に本多神社境内に建立されました。幕末の動乱期に「将軍暗殺の計画がある」という無実の罪で逮捕され、死罪が申し渡された膳所藩の尊皇攘夷派11名と、脱藩の勤王志士3名を含めた...

芭蕉翁経塚の碑

安永9年(1780)に、近津尾神社境内の幻住庵旧跡の前に建立されました。義仲寺の復興に努めたことでも知られる僧・蝶夢の門人達が、芭蕉供養のために小石ひとつに一文字ずつを書写した「一石一字の法華経」を埋...

木曽義仲遺跡の碑

天保3年(1832)12月、木曽義仲(=源義仲)の650年忌にあたって、義仲の末裔で江戸幕府の侍医・源義長が義仲寺境内に建立したものです。高さ1.7m、「朝日将軍木曽源公遺跡之碑」と題額し、撰文が刻ま...

大日寺

大日山の頂上にある寺院で、今は寺守の居ない無住寺です。 「大日山」の名の由来は、奈良時代の僧・行基が、この山全体を大日如来の姿とみなし、山頂部の自然石に頭部を彫ったことに因るといわれています。ただ、そ...

瀬田城跡

瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川であり、そこに架かる瀬田の唐橋は古代より交通・軍事上の重要戦略拠点とされてきました。瀬田城は、この橋のたもとに築かれたお城で、代々山岡氏が城主をつとめました。 織田信...

とくとくの清水

俳聖・松尾芭蕉は元禄3年(1690)4月、幻住庵に入り、この清水を使い気ままな自炊生活を送りました。芭蕉俳文の代表作『幻住庵記』には、「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの...

今井兼平の墓

今井兼平は平安時代末期の武将です。乳兄弟にあたる木曽義仲に忠義をもって仕えたことで知られています。寿永3年(1184)、源義経らの軍に追われ、義仲とともに粟津の地へ逃れたものの、義仲が討たれたことを知...

西蓮寺

現在は浄土宗の寺院ですが、寺の由来書によれば、もとは石山寺(真言宗)の寺跡で「寺辺総堂」と呼ばれていました。本堂には江戸時代中期の作とみられる木像阿弥陀如来像が安置されています。また境内墓地には、手代...

南郷御霊神社

祭神は、奈良時代の官人で学者でもあった右大臣・吉備真備です。応安6年(1373)2月、京都下御霊神社の分霊を勧請して創建したと伝えます。いわゆる「御霊神社」は、政変などにより非業の最後を遂げた人々の怨...

北大路御霊神社

祭神は弘文天皇(=大友皇子)で、西の庄にある石坐神社と同体の神社です。壬申の乱で敗れた大友皇子の死去の地に近いことから、この地で祀られるようになったと伝わります。本殿は一間社流造で、元禄6年(1693...

新宮神社

石山寺の堂宇が点在する伽藍山の南麓にあたる場所で、「寺辺の森」と呼ばれる樹林のなかに鎮座します。主神は伊弉諾尊と伊弉冉尊です。 壬申の乱で敗れた大友皇子は、現在の石山寺周辺で自害したといわれています。...

鳥居川御霊神社

祭神は弘文天皇(=大友皇子)です。社伝によると、壬申の乱で敗れた大友皇子が自ら命を絶ったとされる「隠レ山」がこの場所であったと言われています。白鳳4年(675)、大友皇子の子・大友与多王が父の霊を祭祀...

横尾山一号古墳

横尾山古墳群は、7世紀前半の古墳時代の終わりに築かれたものと考えられています。もとは瀬田川の左岸、瀬田丘陵の西端に位置し、30基の古墳群からは須恵器や鉄鈴、和同開珎などが出土しています。京滋バイパスの...

近津尾神社

祭神は譽田別尊(=応神天皇)で八幡神を勧請したものといわれ、以前は「近津尾八満宮」とも呼ばれていました。伝えによると、承安3年(1173)、後白河院が石山寺に行幸の際、石山寺座主・公祐僧都に命じ、石山...

国分大塚古墳

瀬田川西岸に近い国分一丁目にある前方後円墳です。全長45mで、前方部と後円部のそれぞれに横穴式石室を設けています。この古墳は湖西地方の前方後円墳としては最も新しく、6世紀中頃の築造と考えられます。 現...

漏刻祭

天智天皇と縁の深い、近江神宮と石坐神社で執り行われる祭礼です。 『日本書紀』によると、天智10年(671)4月25日、天智天皇は日本で初めて漏刻(水時計)を用いて時をはかり、鐘や太鼓で大津京の人々に時...

びわ湖開き

昭和31年(1956)から続く、琵琶湖に春を告げるための行事です。湖上の安全を祈願するとともに、水の恵みに感謝を捧げ、琵琶湖の環境保全などを呼びかけます。 湖上パレードでは、旗艦ミシガンに乗船した市長...

奉扇会

義仲寺・翁堂に安置される木造松尾芭蕉像は、仏具の一つである「如意」を手に持ちます。これを「白扇」に取り替える行事が奉扇会です。江戸時代の明和6年(1769)、無名庵の再興者である僧・蝶夢が創始しました...

蹴鞠祭り

「蹴鞠の神」精大明神を祭神とする平野神社の祭礼です。 蹴鞠は中国で生まれ、飛鳥時代の仏教伝来とともに日本に入ってきたとされています。以後、平安時代になって盛んとなり、貴族中心の芸能として普及しました。...

篠津神社

古くから中庄村の氏神として信仰されてきました。創始年代は明らかではないものの、康正2年(1456)の棟札が見つかっており、室町時代の中頃にはすでに鎮座していたことが分かります。祭神は素盞鳴命です。 現...

大津祭

湖国三大祭りの一つとして名高い、天孫神社の祭礼です。秋空の下、華麗な13基の曳山がコンチキチンのお囃子とともに各所で巧妙なからくりを演じ、市街地一帯を巡行します。 『牽山由来覚書』によると、大津祭の発...

船幸祭

「近江一の宮」である建部大社の祭礼です。瀬田川の夏を彩る大祭で、神輿が御座船に乗り川を巡幸するという、いかにも水の都・大津らしい特色をもちます。これは日本武尊が東征のとき、船団を従え海路を行ったという...

みたらし祭り

唐崎神社で執り行われる夏の祭礼です。「夏越の祓」とも呼ばれ、人々の穢れを祓い、暑い夏を健康で乗り越えられるようにと祈願がなされます。 この日、参拝者は名前を書いた人形(ひとがた)に息を吹きかけて、罪穢...

関蝉丸神社

平安京の東の入口にあたる「逢坂の関」の鎮守神として、また街道の安全を守る道祖神として創建されたと考えられています。上社と下社に分かれ、祭神は、上社が猿田彦命、下社が豊玉姫命を祀ります。天慶9年(946...

唐崎の松

唐崎神社の神木で、「琵琶湖の霊松」とも呼ばれる一本松です。 社伝によれば、天正9年(1581)に大風で松が倒れ、これを惜しんだ大津城主・新庄直頼らが同19年(1591)にその松の実生を植えたと伝わりま...

唐崎神社

日吉大社の摂社の一つです。創建は持統天皇の時代と伝わり、祭神に女別当神を祀ります。かつては「女別当神社」とも呼ばれ、婦人病に霊験ありとして女性から広く信仰をあつめました。また、古くから祓の霊場としても...

旧琵琶湖ホテル

昭和9年(1934)、外国人観光客の誘致を目的に県内初の国際観光ホテルとして建築されました。設計は東京歌舞伎座などの建築で知られる岡田信一郎で、鉄筋コンクリート造でありながら、社寺建築を模した外観を持...

滋賀県庁舎本館

現在の建物は、県庁舎建築を得意とし東京・日比谷公会堂などを手掛けた佐藤功一と、建築装飾を得意とした國枝博による共同設計で、昭和14年(1939)5月の竣工です。 ロ字形建物の正面に両翼を設けた鉄筋コン...

旧膳所城下町

江戸時代、徳川家康は大津城を廃城とし、新しく膳所城を築きました。これは大津を商業都市、膳所を軍事都市として役割を分けるためであったと考えられています。 膳所の城下町は、西庄村・膳所村・別保村などの5つ...

和田神社

社伝によると創祀は白鳳34年(675)とされ、祭神は水をつかさどる高_神です。創祀当初は「元天皇社」や「八大龍王社」と呼ばれていたといいます。江戸時代には膳所城下町を構成した5つの村の一つ、木下村の氏...

穴太廃寺跡

大津京関連遺跡の一つで、大津京の北に位置する穴太で発見された寺院跡です。 昭和59年(1984)の発掘調査で、建立時期の違う二つの伽藍配置をもつことが明らかになりました。創建当初の伽藍配置は詳細不明な...

正法寺

京都と滋賀の境にある標高443mの岩間山山腹に建立された寺院で、正式名称は「岩間山正法寺」です。西国三十三所観音霊場の第12番札所として信仰を集めます。開創は養老6年(722)、泰澄法師がこの地で修行...

南滋賀廃寺跡

大津京関連遺跡の一つとされる寺院跡です。 昭和初期に、大津京の位置を究明する目的から崇福寺跡とともに発掘調査が実施されました。飛鳥(奈良県)の川原寺と同じ伽藍配置で、中門を入ると東側に塔、西側に西金堂...

志賀の大仏

都と近江を結ぶ志賀越えの道沿いに立つ石造の大仏です。 大きな花崗岩に像高3.1mの阿弥陀如来坐像が彫られています。鎌倉時代(13世紀頃)の作とされ、優しさにあふれた表情で、体部もどっしりとしています。...

大津絵

大津絵は、江戸時代初期の寛永年間(17世紀前半)頃から、東海道大津宿の大谷町・追分町で売られていた民画です。素朴でのびのびとした描線や、寓意を含んだユーモラスな画題などで親しまれました。 松尾芭蕉の句...

大津百町館

江戸時代、大津は宿場町・港町・園城寺(三井寺)の門前町として大いに賑わい、元禄年間(17世紀後半)には町数100カ町、人口1万8千人を超える商業都市として栄えました。その繁栄ぶりは「大津百町」と称され...

大津祭曳山展示館

大津祭は、湖国三大祭りの一つで、400年の歴史をもちます。コンチキチンのお囃子とともに、京町三丁目の天孫神社から華麗な13基の曳山(市指定有形民俗文化財)が市街地一帯を巡行します。曳山はいずれも江戸時...

崇福寺跡

崇福寺は、天智天皇の勅願により大津京鎮護を目的として建立された寺院です。大津京遷都の翌年(668)の建立と考えられ、近年では、大津京の所在地を解き明かす鍵としても注目されてきました。 京阪・滋賀里駅か...

百穴古墳群

滋賀里の山中、志賀越えの道沿いに残る古墳群です。全体的に削られたり流失したりしていますが、すべてドーム状の横穴式石室をもつ直径10m前後の小円墳とみられます。石室の構造から6世紀後半頃のものと考えられ...

粟津晴嵐

近江八景の一つ。東海道の膳所から瀬田までの松並木を描いた『粟津の晴嵐』は、強風に枝葉がざわめく様子から「晴嵐」と言われたそうです。現在、この場所では「粟津の晴嵐」の風景を復元した松並木の連なる遊歩道を...

幻住庵跡

貞享2年(1685)、初めて大津を訪れた松尾芭蕉は、以降、大津の風光をこよなく愛し、多くの門人をもつことになります。幻住庵は、門人の一人・菅沼曲水が叔父の庵を改修し、芭蕉に提供したもので、近津尾(ちか...

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋は、「勢多橋」とも書きます。古くは壬申の乱(672年)における激戦の舞台として登場します。その後、東国から都入りする際の瀬田川に架かる唯一の橋として交通の要所となり、戦争の際には常に軍事目標...

石場の常夜燈

石場の常夜燈は、幕末の弘化2年(1845)に建てられたもので、石場と対岸の矢橋(やばせ)間の渡し船の目印とされました。高さ8.4mの大型の常夜燈の基壇には、大津・京・大坂などの船仲間の名が刻まれていま...

石坐神社

石坐神社は天智天皇の頃の創建と伝えられます。祭神は天智天皇・弘文天皇など六柱で、「延喜式」に記される古社でもあります。八大竜王社とも呼ばれ、その名のごとく水の神様でもあります。石坐神社は、かつて御霊殿...

膳所城跡

膳所城は慶長6年(1601)の築城で、別名を石鹿(せきろく)城といいます。本丸が琵琶湖に突き出た水城の構造をもち、膳所藩主・本多家6万石の居城としてその雄姿を誇りましたが、明治3年(1870)に廃城と...

膳所神社

膳所神社は奈良時代の創祀と伝えられます。中世においては諸武将からの崇敬が篤く、社伝には豊臣秀吉や秀吉夫人の北政所(きたのまんどころ)、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っています。表門は、明治...

蘆花浅水荘

蘆花浅水荘は、地元膳所出身で近代日本画壇の巨匠・山元春挙の別邸です(建物は重要文化財)。邸内には師・森寛斎らをまつる記恩堂が建ち、庭園は旧来の築山や複雑な石組を排し、得意の風景画の手法を採用することで...

大津京跡

大津京(大津宮)は、天智天皇が667年に遷都し、5年後の672年に壬申の乱で滅びた短命の都です。その位置はながらく論議されてきましたが、昭和49年、錦織の地で大規模な掘立柱建物跡が発見され、これが内裏...

皇子山古墳群

皇子山古墳群は、滋賀県でも類例の少ない前方後方墳(1号墳、4世紀後半)と円墳(2号墳、3世紀末頃)からなります。現在、1号墳の東斜面には築造当時のような葺石が敷かれ、古墳公園としての整備も進み、古墳の...

大津市歴史博物館

こちらは大津歴史博物館です。 京都にも近く文化的都市として発展してきた大津は、市町村としては全国第三位の国指定文化財保有件数を誇ります。 大津歴史博物館は、今に伝わる数多くの文化財を収集、保管、調査研...

弘文天皇陵

672年、壬申の乱で天智天皇の弟・大海人皇子に敗れた大友皇子(天智の皇子)は、山前(やまさき)の地で自殺したと記録にはあります。その後、大友皇子はながらく天皇と認められなかったものの、明治3年(187...

天孫神社

天孫神社は桓武天皇にいわれのある海運神で、10月の「大津祭」で有名です。「四宮神社」とも呼ばれる所以は、彦火火出見尊、国常立尊、大名伴遅尊、帯中津日子尊の四柱を祀ることから、また、彦火火出見尊が天照大...

建部大社

瀬田の唐橋の東約500mに所在。近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。祭神は日本武尊。奈良時代に神崎郡建部郷から瀬田大野山(所在不明)山頂に遷され、その後、建部氏によって現在地...

三尾神社

こちらは、三尾(みお)神社です。 太古の頃、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が長等山(ながらやま)の地主神(じぬしのかみ)として降臨したのが縁起の始まりとされます。 伊弉諾尊はいつも赤、白、黒三本の腰帯を...

長等神社楼門

こちらは、長等神社楼門(ながらじんじゃろうもん)です。 明治38年に建立されました。 この楼門は室町時代頃の様式にのっとったもので、明治時代の楼門の代表作です。 柱と柱で囲まれた中央が出入り口となって...

長安寺宝塔

旧東海道から西へ入った長安寺境内に建つ石造の宝塔。高さ約3.3m。八角形の台石の上につぼ型の塔身を置き、その上に六角形の笠石をのせるという、他に例を見ない形式をとる。万寿2年の『関寺縁起』によれば、こ...

近江神宮

近江神宮は天智天皇を主祭神としています。大津宮を開いた天智天皇をまつるため、皇紀2600年の昭和15年(1940)、宮跡に近い現在地に創建されました。神宮造営の際には数多くの滋賀県民の奉仕があったと言...

琵琶湖疏水

京阪電鉄三井寺駅のすぐ北側を流れる疏水運河。京都への飲料水の供給と灌漑、水運、発電を目的として明治18年(1885)6月2日に着工、約5年の歳月をかけて明治23年(1890)4月に完成した(第2疏水は...

大津市旧大津公会堂

昭和9年に「大津公会堂」として建設されて以来、名称や用途を変えながら市民の交流の場として親しまれてきた。 昭和60年からは、大津市社会教育会館の名で社会教育の拠点として利用されてきたが、施設の老朽化に...

義仲寺

江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚であったが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644~1694)が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立...

茶臼山古墳

茶臼山(155m)中腹にある県下第2位の規模を誇る大古墳で国指定の史跡。 彦坐王とも大友皇子一族の墓ともいわれるが、被葬者については明らかではない。_墳丘全面には葺石が敷かれ、円筒埴輪が巡り、後円部頂...

逢坂山関跡

京阪電鉄大谷駅の東約100m、国道1号沿いに「逢坂山関跡」の記念碑が立つ。 逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝であった。古くから貴族や武将をはじめ...

大津城跡

安土・桃山時代、豊臣秀吉が坂本城にかわり新たに築城した大津城。 現在、城跡碑が立っているあたりが本丸の跡で、広大な面積を持っていたと考えられる。昭和55年(1980)に城郭の石垣と思われる遺構が発掘さ...