大練寺の境内には、かつて「練貫水」と呼ばれた名水が湧き出ていました。大津宮を開いた天智天皇の御衣を練った(生絹を煮てしなやかにした)ことからこの名がおこったといわれています。豊臣秀吉も大練寺を訪れ、こ...
浄土真宗発展の礎を築いた蓮如上人が、比叡山の僧兵たちによる真宗迫害の難から逃れ大津へおちのびたときのこと、蓮如をなきものにしようと企む者たちが、上人の食膳に毒をもりました。そうとは知らぬ上人が、まさに...
弘仁6年(815)、弘法大師空海が諸国を行脚していたとき、大石のあたりで立木山の山腹に光を放つ霊木を見つけました。「これも仏様のお導きに違いない」と、大師はその霊木に向かって進もうとしましたが、眼前に...
むかし、大津の柴屋町遊郭に多賀花という遊女がいました。呉服屋の手代・善兵衛と恋に落ちましたが、手代という身では遊女の身請けなど出来るはずもありませんでした。二人は所詮、この世では添われぬものとあきらめ...
伝説によると、むかし湖北の竹生島には三つの島があり、その一つが琵琶湖から瀬田川に入り、流れ着いて陸地となったのが大日山であるといわれています。「大日山」の名の由来は、奈良時代の僧・行基が、この山全体を...
天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君・織田信長を京都本能寺に討ちます。そこからわずか十日ばかりの後、同月13日、光秀は山崎合戦で羽柴秀吉に敗れます。このとき、安土城を占拠していた光秀の娘婿・...
ある日のこと、藤原秀郷(=田原藤太)が瀬田の唐橋を渡っていると、橋の中ほどに長さ二〇丈(約60m)にもおよばんとする大蛇が横たわっていました。皆が大蛇を恐れ橋を通れず困っているなか、秀郷は平然とその背...
奈良時代に造営された保良宮の礎石と伝える石です。地元では雨乞い祈願に用いられ、「雨壷に願かけて、へそ石焼くと雨が降る」との言い伝えが残されています。「雨壷」とは雨壷神社のことで、現在は近津尾神社の境内...
三上山の大百足退治で有名な藤原秀郷(=俵藤太)ゆかりの寺院です。応永15年(1408)10月14日、秀郷より十四代目の子孫である蒲生郡小御門城主・蒲生高秀によって、秀郷追善供養のお寺として建立されまし...
859年、智証大師円珍は三井寺造営の良材を求め太神山に入りました。夜毎に金色の光を発するこの山を不思議に思い、山頂へと登っていくと、山頂の大岩にひとりの翁が座っていました。翁は、「大師が来られるのを待...
鹿跳渓谷を望む立木山の山腹、800段の石段の先にある寺院です。 弘仁6年(815)、弘法大師がこの地を訪れたとき山中に光る霊木を見つけ、その霊木に立木のまま観音像を刻み、一堂を建立したことが始まりと伝...
創建は平安時代の貞観18年(876)、円海和尚が開いたのが始まりと伝わります。当初は天台宗の寺院でしたが衰退の後、慶長年間(1596~1615年)に再興され曹洞宗に改宗しています。境内には、天智天皇の...
貞観4年(862)に天台寺門宗の開祖・智証大師によって開かれ、のち浄土真宗に改められたと伝わります。蓮如上人の難を救ったとされる「身代わり名号石」の旧跡地として、とくに真宗の人々の信仰を集めます。本尊...
浄土宗の寺院で、天文元年(1532)に僧・西念が藤原秀郷館の旧地と伝える地に建立したのが始まりとされています。境内には、三上山の大百足退治の伝説で名高い藤原秀郷(=俵藤太)ゆかりの「月見の石」と「矢の...
太神山の頂上近くにある天台寺門宗の寺院で、正式名称は「太神山不動寺」といいます。平安時代初期の貞観元年(859)、三井寺を再興した智証大師円珍によって創建されました。本尊は円珍作の不動尊像です。重要文...
粟津ヶ原合戦とは、寿永3年(1184)1月20日に近江国粟津にて行われた木曽義仲と源義経らとの戦いです。さきの六条河原の戦いで敗れた木曽義仲は、北陸への逃走を目論むも道中で軍は壊滅し、粟津に着くころに...
祭神は、本多家中興の祖と仰がれる本多忠俊、忠次、康俊、俊次の四柱で、このうち康俊と俊次が膳所藩主に就任しています。旧膳所藩士など有志によって明治16年(1883)に建立されました。神紋は本多家の家紋「...
祭神は加具都智命と大国主命の二神です。同社の立つ丘陵は茶臼山古墳と呼ばれる4世紀末から5世紀初め頃の前方後円墳で、全長は122.5mと県下第二位の規模を誇ります。また同社は、江戸時代に京都御所の火の番...
京阪石場駅から島ノ関駅にかけて、線路と湖岸道路との間に高さ50cm程の石垣が見られます。これはかつての琵琶湖岸の石垣の上部で、湖岸が埋め立てられる前はここまで水が来ていたことになります。石垣を降りるた...
明治6年(1873)、政府は徴兵令を公布し、全国の青年男子には兵役義務が課されました。同8年、編成された陸軍歩兵第九連隊が現在の御陵町付近に駐屯してきます。これ以降、大津も軍都の性格をもちますが、現在...
琵琶湖から南流する瀬田川は、田上関津町を過ぎるあたりから下流の鹿跳橋のあたりまで、両側に山がせまっています。このため川幅は非常にせまく、急流に洗われた岩は変化に富むものとなっていて、水瓶のような小さな...
大津算盤は、東海道筋の大谷町から追分町までのあいだで大津絵や縫針などとともに、大津を代表する特産品のひとつとして売られていました。大津算盤の由来は、慶長17年(1612)に長崎奉行・長谷川藤広にしたが...
全長664mのトンネルで、京都=大津間に鉄道が開通した明治13年(1880)の完成です。当時、鉄道の敷設工事は英国人の指導をあおぐことが一般的でしたが、このトンネルは日本人のみの手で施工された国内最初...
車石とは、車のわだちを刻んだ花崗岩の切石です。文化元年(1804)から二年の歳月をかけて、大津八丁から京都三条大橋までの三里(約10km)の道を牛車専用道に整備するために敷設されました。しかし明治以降...
江戸時代の大津港には、いくつもの「関」と呼ばれる荷揚げの場がありました。多くの船が発着し、その湖岸には航路の目印となる常夜燈が立てられていました。小舟入の常夜燈は、文化5年(1808)の建立で、高さは...
本陣とは、江戸時代に宿場におかれた大名や公家などのための宿泊施設です。大津宿には二軒の本陣があり、肥前屋九左衛門宅(御幸町1丁目)ともう一軒がこの地にあった大坂屋嘉右衛門宅です。大津は北国街道と東海道...
三井寺より、如意ヶ岳を越えて京都・鹿ヶ谷に至る道です。大津から京都へ出る山越えの間道として、三井寺の僧侶などによく利用されました。また、源平争乱、南北朝の内乱といった戦乱の際には軍勢が行き交い、戦場と...
逢坂越の北側の山中を、三井寺町から藤尾奥町へと抜ける間道です。およそ4kmの短い間道ではありますが、古代より京都と近江を結ぶ道として頻繁に利用されてきました。小関越の名称は、逢坂越の「大関」に対してそ...
札の辻は、北国街道と東海道の分岐点にあたります。その名の由来は、ここに江戸幕府の法令を記した「高札」が立てられていたことによります。札の辻には宿場の人足や伝馬を調達する人馬会所がおかれ、また八丁筋には...
滋賀里から志賀峠を越え、山中町を経て、京都・北白川へ至る道です。「志賀の山越」とも呼ばれ、大津と京都をむすぶ最短路として平安時代から利用されてきました。『古今和歌集』など多くの和歌集に詠まれ、近江の歌...
「興生相生大神宮」とも呼ばれ、もとは大津宿の人馬を調達する人馬会所の敷地内にあったもので、明治43年(1910)に現在地の長等神社境内に移されました。社伝によると、寛永年間(1624~1644)に牛馬...
この地より湖岸側は、江戸時代に彦根藩の蔵屋敷「佐和蔵」があったところで、当社はその邸内に祀られていたと伝えられています。廃藩後も引き続き祀られていましたが、戦後、現在地に移されました。祭神は彦田稲荷大...
祭神は、蛭子尊です。当社は民家と民家との間の露地に鎮座し、入口には鳥居と立格子の扉を配し、奥に一間社流造の本殿が建ちます。由来は不詳ですが『大津市志』によると、かつて坂本の榊宮社の神木が倒れ、その木か...
赤塚古墳(5世紀代)の墳丘上に建つことから、「赤塚大明神」の名でも知られています。文献史料がほとんど残っておらず、由緒は不明ですが、祭神は天智天皇の皇后・倭姫と伝えます。これは赤塚古墳の被葬者が倭姫だ...
祭神は応神天皇で、近江神宮の西側にあたる宇佐山の中腹に鎮座します。三井寺の『寺門伝記補録』によると、治暦元年(1065)、源頼義が自ら帰依していた行観僧正の協力を得て、宇佐山に宇佐八幡宮を勧請したと伝...
祭神は、大国主命と田中恒世、そして粟津開発の祖・大導寺田端之介の三神です。膳所の総社として信仰を集めます。 恒世神は、陽炎神とともに粟津の地に降臨した神で、田圃の中に天降ったことから「田中恒世」と呼ば...
古来、平津村の鎮守として崇敬されてきた神社です。平安時代の中期に信濃国戸隠大明神を勧請したという伝えがあります。祭神は、天手力男神で、この神は記紀神話にも登場し、天照大神の隠れた天岩戸の扉をひらいたと...
元慶年間(877〜885)、三井寺の祖・智証大師円珍によって開基されたお堂です。正式には「山上浪切不動尊」といい、その本尊はお堂の奥にひっそりと佇む磨崖仏です。この磨崖仏は「仁治三年(1242)」の銘...
長等山の中腹に鎮座し、入母屋造の本殿に建速素戔嗚尊を祀ります。また相殿には猿田彦を、向かって左の児大友社には大友皇子の子・大友与多王を祀ります。社伝によれば、貞観年間(859〜877)、智証大師円珍が...
昭和7年(1932)10月21日に本多神社境内に建立されました。幕末の動乱期に「将軍暗殺の計画がある」という無実の罪で逮捕され、死罪が申し渡された膳所藩の尊皇攘夷派11名と、脱藩の勤王志士3名を含めた...
安永9年(1780)に、近津尾神社境内の幻住庵旧跡の前に建立されました。義仲寺の復興に努めたことでも知られる僧・蝶夢の門人達が、芭蕉供養のために小石ひとつに一文字ずつを書写した「一石一字の法華経」を埋...
天保3年(1832)12月、木曽義仲(=源義仲)の650年忌にあたって、義仲の末裔で江戸幕府の侍医・源義長が義仲寺境内に建立したものです。高さ1.7m、「朝日将軍木曽源公遺跡之碑」と題額し、撰文が刻ま...
大日山の頂上にある寺院で、今は寺守の居ない無住寺です。 「大日山」の名の由来は、奈良時代の僧・行基が、この山全体を大日如来の姿とみなし、山頂部の自然石に頭部を彫ったことに因るといわれています。ただ、そ...
瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川であり、そこに架かる瀬田の唐橋は古代より交通・軍事上の重要戦略拠点とされてきました。瀬田城は、この橋のたもとに築かれたお城で、代々山岡氏が城主をつとめました。 織田信...
俳聖・松尾芭蕉は元禄3年(1690)4月、幻住庵に入り、この清水を使い気ままな自炊生活を送りました。芭蕉俳文の代表作『幻住庵記』には、「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの...
今井兼平は平安時代末期の武将です。乳兄弟にあたる木曽義仲に忠義をもって仕えたことで知られています。寿永3年(1184)、源義経らの軍に追われ、義仲とともに粟津の地へ逃れたものの、義仲が討たれたことを知...
現在は浄土宗の寺院ですが、寺の由来書によれば、もとは石山寺(真言宗)の寺跡で「寺辺総堂」と呼ばれていました。本堂には江戸時代中期の作とみられる木像阿弥陀如来像が安置されています。また境内墓地には、手代...
祭神は、奈良時代の官人で学者でもあった右大臣・吉備真備です。応安6年(1373)2月、京都下御霊神社の分霊を勧請して創建したと伝えます。いわゆる「御霊神社」は、政変などにより非業の最後を遂げた人々の怨...
祭神は弘文天皇(=大友皇子)で、西の庄にある石坐神社と同体の神社です。壬申の乱で敗れた大友皇子の死去の地に近いことから、この地で祀られるようになったと伝わります。本殿は一間社流造で、元禄6年(1693...
石山寺の堂宇が点在する伽藍山の南麓にあたる場所で、「寺辺の森」と呼ばれる樹林のなかに鎮座します。主神は伊弉諾尊と伊弉冉尊です。 壬申の乱で敗れた大友皇子は、現在の石山寺周辺で自害したといわれています。...
祭神は弘文天皇(=大友皇子)です。社伝によると、壬申の乱で敗れた大友皇子が自ら命を絶ったとされる「隠レ山」がこの場所であったと言われています。白鳳4年(675)、大友皇子の子・大友与多王が父の霊を祭祀...
横尾山古墳群は、7世紀前半の古墳時代の終わりに築かれたものと考えられています。もとは瀬田川の左岸、瀬田丘陵の西端に位置し、30基の古墳群からは須恵器や鉄鈴、和同開珎などが出土しています。京滋バイパスの...
祭神は譽田別尊(=応神天皇)で八幡神を勧請したものといわれ、以前は「近津尾八満宮」とも呼ばれていました。伝えによると、承安3年(1173)、後白河院が石山寺に行幸の際、石山寺座主・公祐僧都に命じ、石山...
瀬田川西岸に近い国分一丁目にある前方後円墳です。全長45mで、前方部と後円部のそれぞれに横穴式石室を設けています。この古墳は湖西地方の前方後円墳としては最も新しく、6世紀中頃の築造と考えられます。 現...
天智天皇と縁の深い、近江神宮と石坐神社で執り行われる祭礼です。 『日本書紀』によると、天智10年(671)4月25日、天智天皇は日本で初めて漏刻(水時計)を用いて時をはかり、鐘や太鼓で大津京の人々に時...
昭和31年(1956)から続く、琵琶湖に春を告げるための行事です。湖上の安全を祈願するとともに、水の恵みに感謝を捧げ、琵琶湖の環境保全などを呼びかけます。 湖上パレードでは、旗艦ミシガンに乗船した市長...
義仲寺・翁堂に安置される木造松尾芭蕉像は、仏具の一つである「如意」を手に持ちます。これを「白扇」に取り替える行事が奉扇会です。江戸時代の明和6年(1769)、無名庵の再興者である僧・蝶夢が創始しました...
「蹴鞠の神」精大明神を祭神とする平野神社の祭礼です。 蹴鞠は中国で生まれ、飛鳥時代の仏教伝来とともに日本に入ってきたとされています。以後、平安時代になって盛んとなり、貴族中心の芸能として普及しました。...
古くから中庄村の氏神として信仰されてきました。創始年代は明らかではないものの、康正2年(1456)の棟札が見つかっており、室町時代の中頃にはすでに鎮座していたことが分かります。祭神は素盞鳴命です。 現...
湖国三大祭りの一つとして名高い、天孫神社の祭礼です。秋空の下、華麗な13基の曳山がコンチキチンのお囃子とともに各所で巧妙なからくりを演じ、市街地一帯を巡行します。 『牽山由来覚書』によると、大津祭の発...
「近江一の宮」である建部大社の祭礼です。瀬田川の夏を彩る大祭で、神輿が御座船に乗り川を巡幸するという、いかにも水の都・大津らしい特色をもちます。これは日本武尊が東征のとき、船団を従え海路を行ったという...
唐崎神社で執り行われる夏の祭礼です。「夏越の祓」とも呼ばれ、人々の穢れを祓い、暑い夏を健康で乗り越えられるようにと祈願がなされます。 この日、参拝者は名前を書いた人形(ひとがた)に息を吹きかけて、罪穢...
平安京の東の入口にあたる「逢坂の関」の鎮守神として、また街道の安全を守る道祖神として創建されたと考えられています。上社と下社に分かれ、祭神は、上社が猿田彦命、下社が豊玉姫命を祀ります。天慶9年(946...
唐崎神社の神木で、「琵琶湖の霊松」とも呼ばれる一本松です。 社伝によれば、天正9年(1581)に大風で松が倒れ、これを惜しんだ大津城主・新庄直頼らが同19年(1591)にその松の実生を植えたと伝わりま...
日吉大社の摂社の一つです。創建は持統天皇の時代と伝わり、祭神に女別当神を祀ります。かつては「女別当神社」とも呼ばれ、婦人病に霊験ありとして女性から広く信仰をあつめました。また、古くから祓の霊場としても...
昭和9年(1934)、外国人観光客の誘致を目的に県内初の国際観光ホテルとして建築されました。設計は東京歌舞伎座などの建築で知られる岡田信一郎で、鉄筋コンクリート造でありながら、社寺建築を模した外観を持...
現在の建物は、県庁舎建築を得意とし東京・日比谷公会堂などを手掛けた佐藤功一と、建築装飾を得意とした國枝博による共同設計で、昭和14年(1939)5月の竣工です。 ロ字形建物の正面に両翼を設けた鉄筋コン...
江戸時代、徳川家康は大津城を廃城とし、新しく膳所城を築きました。これは大津を商業都市、膳所を軍事都市として役割を分けるためであったと考えられています。 膳所の城下町は、西庄村・膳所村・別保村などの5つ...
社伝によると創祀は白鳳34年(675)とされ、祭神は水をつかさどる高_神です。創祀当初は「元天皇社」や「八大龍王社」と呼ばれていたといいます。江戸時代には膳所城下町を構成した5つの村の一つ、木下村の氏...
大津京関連遺跡の一つで、大津京の北に位置する穴太で発見された寺院跡です。 昭和59年(1984)の発掘調査で、建立時期の違う二つの伽藍配置をもつことが明らかになりました。創建当初の伽藍配置は詳細不明な...
京都と滋賀の境にある標高443mの岩間山山腹に建立された寺院で、正式名称は「岩間山正法寺」です。西国三十三所観音霊場の第12番札所として信仰を集めます。開創は養老6年(722)、泰澄法師がこの地で修行...
大津京関連遺跡の一つとされる寺院跡です。 昭和初期に、大津京の位置を究明する目的から崇福寺跡とともに発掘調査が実施されました。飛鳥(奈良県)の川原寺と同じ伽藍配置で、中門を入ると東側に塔、西側に西金堂...
都と近江を結ぶ志賀越えの道沿いに立つ石造の大仏です。 大きな花崗岩に像高3.1mの阿弥陀如来坐像が彫られています。鎌倉時代(13世紀頃)の作とされ、優しさにあふれた表情で、体部もどっしりとしています。...
大津絵は、江戸時代初期の寛永年間(17世紀前半)頃から、東海道大津宿の大谷町・追分町で売られていた民画です。素朴でのびのびとした描線や、寓意を含んだユーモラスな画題などで親しまれました。 松尾芭蕉の句...
江戸時代、大津は宿場町・港町・園城寺(三井寺)の門前町として大いに賑わい、元禄年間(17世紀後半)には町数100カ町、人口1万8千人を超える商業都市として栄えました。その繁栄ぶりは「大津百町」と称され...
大津祭は、湖国三大祭りの一つで、400年の歴史をもちます。コンチキチンのお囃子とともに、京町三丁目の天孫神社から華麗な13基の曳山(市指定有形民俗文化財)が市街地一帯を巡行します。曳山はいずれも江戸時...
崇福寺は、天智天皇の勅願により大津京鎮護を目的として建立された寺院です。大津京遷都の翌年(668)の建立と考えられ、近年では、大津京の所在地を解き明かす鍵としても注目されてきました。 京阪・滋賀里駅か...
滋賀里の山中、志賀越えの道沿いに残る古墳群です。全体的に削られたり流失したりしていますが、すべてドーム状の横穴式石室をもつ直径10m前後の小円墳とみられます。石室の構造から6世紀後半頃のものと考えられ...
近江八景の一つ。東海道の膳所から瀬田までの松並木を描いた『粟津の晴嵐』は、強風に枝葉がざわめく様子から「晴嵐」と言われたそうです。現在、この場所では「粟津の晴嵐」の風景を復元した松並木の連なる遊歩道を...
貞享2年(1685)、初めて大津を訪れた松尾芭蕉は、以降、大津の風光をこよなく愛し、多くの門人をもつことになります。幻住庵は、門人の一人・菅沼曲水が叔父の庵を改修し、芭蕉に提供したもので、近津尾(ちか...
瀬田の唐橋は、「勢多橋」とも書きます。古くは壬申の乱(672年)における激戦の舞台として登場します。その後、東国から都入りする際の瀬田川に架かる唯一の橋として交通の要所となり、戦争の際には常に軍事目標...
石場の常夜燈は、幕末の弘化2年(1845)に建てられたもので、石場と対岸の矢橋(やばせ)間の渡し船の目印とされました。高さ8.4mの大型の常夜燈の基壇には、大津・京・大坂などの船仲間の名が刻まれていま...
石坐神社は天智天皇の頃の創建と伝えられます。祭神は天智天皇・弘文天皇など六柱で、「延喜式」に記される古社でもあります。八大竜王社とも呼ばれ、その名のごとく水の神様でもあります。石坐神社は、かつて御霊殿...
膳所城は慶長6年(1601)の築城で、別名を石鹿(せきろく)城といいます。本丸が琵琶湖に突き出た水城の構造をもち、膳所藩主・本多家6万石の居城としてその雄姿を誇りましたが、明治3年(1870)に廃城と...
膳所神社は奈良時代の創祀と伝えられます。中世においては諸武将からの崇敬が篤く、社伝には豊臣秀吉や秀吉夫人の北政所(きたのまんどころ)、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っています。表門は、明治...
蘆花浅水荘は、地元膳所出身で近代日本画壇の巨匠・山元春挙の別邸です(建物は重要文化財)。邸内には師・森寛斎らをまつる記恩堂が建ち、庭園は旧来の築山や複雑な石組を排し、得意の風景画の手法を採用することで...
大津京(大津宮)は、天智天皇が667年に遷都し、5年後の672年に壬申の乱で滅びた短命の都です。その位置はながらく論議されてきましたが、昭和49年、錦織の地で大規模な掘立柱建物跡が発見され、これが内裏...
皇子山古墳群は、滋賀県でも類例の少ない前方後方墳(1号墳、4世紀後半)と円墳(2号墳、3世紀末頃)からなります。現在、1号墳の東斜面には築造当時のような葺石が敷かれ、古墳公園としての整備も進み、古墳の...
こちらは大津歴史博物館です。 京都にも近く文化的都市として発展してきた大津は、市町村としては全国第三位の国指定文化財保有件数を誇ります。 大津歴史博物館は、今に伝わる数多くの文化財を収集、保管、調査研...
672年、壬申の乱で天智天皇の弟・大海人皇子に敗れた大友皇子(天智の皇子)は、山前(やまさき)の地で自殺したと記録にはあります。その後、大友皇子はながらく天皇と認められなかったものの、明治3年(187...
天孫神社は桓武天皇にいわれのある海運神で、10月の「大津祭」で有名です。「四宮神社」とも呼ばれる所以は、彦火火出見尊、国常立尊、大名伴遅尊、帯中津日子尊の四柱を祀ることから、また、彦火火出見尊が天照大...
瀬田の唐橋の東約500mに所在。近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。祭神は日本武尊。奈良時代に神崎郡建部郷から瀬田大野山(所在不明)山頂に遷され、その後、建部氏によって現在地...
こちらは、三尾(みお)神社です。 太古の頃、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が長等山(ながらやま)の地主神(じぬしのかみ)として降臨したのが縁起の始まりとされます。 伊弉諾尊はいつも赤、白、黒三本の腰帯を...
こちらは、長等神社楼門(ながらじんじゃろうもん)です。 明治38年に建立されました。 この楼門は室町時代頃の様式にのっとったもので、明治時代の楼門の代表作です。 柱と柱で囲まれた中央が出入り口となって...
旧東海道から西へ入った長安寺境内に建つ石造の宝塔。高さ約3.3m。八角形の台石の上につぼ型の塔身を置き、その上に六角形の笠石をのせるという、他に例を見ない形式をとる。万寿2年の『関寺縁起』によれば、こ...
近江神宮は天智天皇を主祭神としています。大津宮を開いた天智天皇をまつるため、皇紀2600年の昭和15年(1940)、宮跡に近い現在地に創建されました。神宮造営の際には数多くの滋賀県民の奉仕があったと言...
京阪電鉄三井寺駅のすぐ北側を流れる疏水運河。京都への飲料水の供給と灌漑、水運、発電を目的として明治18年(1885)6月2日に着工、約5年の歳月をかけて明治23年(1890)4月に完成した(第2疏水は...
昭和9年に「大津公会堂」として建設されて以来、名称や用途を変えながら市民の交流の場として親しまれてきた。 昭和60年からは、大津市社会教育会館の名で社会教育の拠点として利用されてきたが、施設の老朽化に...
江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚であったが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644~1694)が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立...
茶臼山(155m)中腹にある県下第2位の規模を誇る大古墳で国指定の史跡。 彦坐王とも大友皇子一族の墓ともいわれるが、被葬者については明らかではない。_墳丘全面には葺石が敷かれ、円筒埴輪が巡り、後円部頂...
京阪電鉄大谷駅の東約100m、国道1号沿いに「逢坂山関跡」の記念碑が立つ。 逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝であった。古くから貴族や武将をはじめ...
安土・桃山時代、豊臣秀吉が坂本城にかわり新たに築城した大津城。 現在、城跡碑が立っているあたりが本丸の跡で、広大な面積を持っていたと考えられる。昭和55年(1980)に城郭の石垣と思われる遺構が発掘さ...