寛政12年(1800)3月に、木内石亭の喜寿を記念して石山寺参道に建立されました。石亭は諸国をめぐって奇石を収集・研究した民間の鉱物学者で、日本考古学の祖として知られています。石山寺には白瑪瑙という珍...
高さ90.9cmの大型の袈裟襷紋銅鐸で、およそ2000年前の製作と考えられています。 江戸時代後期、1806年に寺部村一老坊(現在の石山寺四丁目付近)の水田から出土し、現在は重要文化財に指定され石山寺...
明治26年(1893)、22歳の藤村は恋愛に悩んで教職を辞し、芭蕉や西行の遺跡を慕って関西へ漂泊の旅に出ました。同年2月上旬に石山寺へ詣で、『ハムレット』一冊を奉納して紫式部の霊に祈ったといいます。石...
平安時代、貴族による石山詣が盛んになり、女流文学者も数多く石山寺を訪れたといいます。彼女たちは、石山寺への参詣や、参籠の日々を作品に書きとめ、石山の地を舞台に多くの和歌を詠んでいます。 『蜻蛉日記』の...
大同元年(808)、唐での修業を終えた弘法大師は、帰国の折に師・恵果和尚から密教法具の一つである三鈷杵を賜ります。大師はその三鈷杵に願いを込め「わたしが漏らすことなく受け継いだ密教を広めるのにふさわし...
石山寺の寺伝で「薫聖教」と呼ばれ、代々座主によって大切に伝えられてきた一群の経巻です。第三代座主・淳祐内供自筆の聖教として国宝に指定されています。 淳祐内供は幼くして家を出、真言宗小野流の僧・観賢のも...
過去・現在・未来あわせて三千仏の名を唱え、五体投地を行うことで、自らの罪障を懺悔し消滅するための法要です。本来は、新しく僧侶になった者「新発意」のための行ですが、石山寺では一般参加が可能です。 毎年1...
西国三十三所観音巡礼の十三番札所としてにぎわいを見せる石山寺は、奈良時代、聖武天皇の治世に創建されたと伝えられます。 ある時、聖武天皇は大仏の造立を思いたち、僧・良弁に材料となる黄金の探索にあたらせま...
紫式部は早くに母を失くし、文人であった父・藤原為時のもとで育ちました。幼少の頃より漢籍に親しみ、優れた素質を示したといわれています。長徳4年(998)頃、官吏をしていた藤原宣孝に嫁ぎますが、わずか二年...
源義朝の長男・義平は、若くして武勇のほまれが高く、「悪源太」と称されました。「悪」は強いという意味、「源太」は源家の長男の意味です。 平治の乱(1159)で、父・源義朝は平清盛との勢力争いに敗れ、京都...
石山寺屈指の学僧・朗澄律師の遺徳をしのぶお祭りです。 「学問の寺」とも称される石山寺は、『石山寺一切経』や『石山寺校倉聖教』をはじめとする膨大な経典・聖教群を現在に伝えます。朗澄律師はこれらの経典類の...
一日の参拝が千日分の功徳を持つとされる日に営まれる法要です。 この日、石山寺では観音菩薩の宝前にて、座主の親修の下に一山の僧侶が出仕し、護国の英霊の冥福を祈るとともに万霊の供養を行い、万灯供養が厳修さ...
千日会およびお盆入りに迎えた先祖の魂を供養し、舟に乗ってお帰りいただくための法要です。 石山寺では、先の千日会(8月9日)で使用した塔婆を提灯からはずし、盂蘭盆会法要(同月13~16日)で奉拝した後、...
毎年8月26日は毘沙門天の年に一度の縁日とされています。 石山寺では、毘沙門堂の本尊である兜跋毘沙門天の宝前にて法要が営まれ、地元の人々が参列します。 毘沙門天は武神として、七福神の一柱として、また観...
平安時代からお月見の名所として知られる石山寺。かつて紫式部が参籠し、湖面に映える十五夜の月を眺めながら『源氏物語』の構想を練ったことでも知られます。 中秋の名月にあわせて開催される秋月祭は、歴史あるお...
初午のお祭りは、稲の神・田の神として信仰をあつめる稲荷神社のお祭りです。 和銅4年(711)2月最初の午の日、京都の稲荷山に、伏見稲荷大社の祭神である宇迦之御魂神が降臨したといわれています。このことか...
真言宗の開祖・弘法大師の遺徳をしのび、報恩謝徳の念をささげる大切な法要です。本来は、大師入定の日にあたる3月21日に営まれますが、石山寺ではひと月遅れの4月21日に執り行われます。 石山寺の正御影供の...
石山祭りは5月5日に行われる三十八所権現社の大祭です。 石山寺の鎮守である三十八所権現社は、本堂東側の硅灰石の上に建ち、日本古来の神々以下三十八代目の天智天皇までを祀ります。 お祭り当日、石山寺の南隣...
釈尊の生誕を祝う祭礼で、「灌仏会」や「降誕会」とも呼ばれます。 本来は釈尊誕生の日にあたる4月8日に行われますが、石山寺ではひと月遅れの5月8日に営まれます。本堂にて、蓮華の花で飾った花御堂をもうけ、...
毎月18日は観音菩薩の縁日とされています。 石山寺門前の表境内では、「牛玉さん」の名でも親しまれる観音市が開催されます。名物のしじみ汁をはじめ、懐古品・骨董・衣料品・朝採り野菜・一夜干しなどの露店が3...
真言宗の開祖・弘法大師は、承和2年(835)3月21日に亡くなったと伝わります。毎月21日はその月命日にあたり、弘法大師入定の縁日とされています。 石山寺では、御影堂にて御影供が厳修されます。御影供は...
不動明王は、教化しにくい衆生を憤怒の形相をもって仏法に導くという怒りの仏です。右手の宝剣で煩悩を断ち切り、左手の羂索は迷える者をからめとり、背後の火炎はあらゆる罪障を焼き尽くすといわれています。 毎月...
日本では古来、人々は星によって自らの運勢を占ったといいます。生まれ年ごとに定められた星と、毎年めぐり来る星との兼ね合いをみて、その一年の吉凶を判断しました。 石山寺では、暦の節目である節分に、本堂の不...
梅の咲きはじめにあわせて開催される、石山寺梅つくし。期間中、境内にある3つの梅園では400本、種類にして40種にのぼる梅が一面に咲き誇ります。また境内各所では30~40点の見頃を迎えた盆梅の展示も行わ...
石山寺の除夜の鐘は、水が最も清らかとされる午前2時から撞き始めます。参拝者は先着で108名が鐘を撞くことができます。重層袴腰の鐘楼は、上層に梵鐘を吊るし、下層から撞木を手前に引いて撞くという珍しい構造...
毎月18日は観音菩薩の縁日とされています。 石山寺では、本堂に安置される本尊・如意輪観世音菩薩(秘仏)の宝前にて法要が営まれ、地元の人々が参列し、安産・福徳・縁結び・厄除けなどのご利益を祈願します。 ...
子育てに悩んでいる親御さんにご利益ありと言われています。
大本山・石山寺(真言宗)は、石山寺一丁目の伽藍山の麓に寺域をもちます。縁起は天平19年(747)、聖武天皇の命により良弁(ろうべん)が開いたとされ、後の天平宝字5年(761)に伽藍が整備されました。平...
万寿元年(1024)に、ご本尊は三人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。...
大黒天堂の西に建ち、妻を正面とする切妻造の建物で、内部は前室、脱衣場、浴室の三室構成となっています。「石山寺年代記録」には、現在の建物として浴室が、退転した建物として大湯屋が挙げられていますが、浴室は...
石山寺の経典・聖教の収集・整備に尽力した学僧朗澄律師の偉業を偲ぶ庭園で、平成11年(1999)に造られました。朗澄律師は、自分の死後は鬼となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、律師が亡くなった後に弟子...
近畿地方を代表する縄文時代早期の遺跡「石山貝塚」を記念する碑。この貝塚一帯から住居跡とともに人骨や石器・骨角器・縄文土器が出土しています。...
平成21年(2009)、石山を発祥の地とする東レ株式会社によって寄進された堂宇です。鎌倉時代に存在したという「光堂」を復興したもので、本堂と同じ懸造となっており、阿弥陀如来を祀っています。...
石山寺参籠の折に『源氏物語』の着想を得たと言われる紫式部の銅像。境内の奥に広がる源氏苑の一角にあります。...
観音菩薩の住地である「補陀落山」と刻まれた石碑から、無憂園沿いの山道を登っていくと、西国三十三所札所観音霊場の観音像が札所順に配されており、気軽に西国巡礼をすることができます。...
本堂の下の南寄りにある井戸で、本尊の御座の下から湧き出ていると伝えられており、本尊にお供えする水はここから汲まれます。...
明治26年(1893)、島崎藤村が20歳のころ、石山寺の門前にあった石山寺の茶丈密蔵院に約2ヶ月間滞在しました。その時のことを「茶丈記」と題して雑誌『文学界』に寄稿しています。現在、密蔵院は、東大門か...
経蔵のすぐそばに、松尾芭蕉の句碑と並んで立っており、紫式部供養塔と伝わります。宝篋印塔の笠を三つ重ねた珍しい層塔で、初重の四面に仏像が浮き彫りにされており、相輪の代わりに宝珠を冠っています。高さは2....
芭蕉が詠んだ句「曙はまだむらさきにほととぎす」を芭蕉自らが記した「芭蕉自画賛句」(石山寺所蔵)と同内容の文字を刻む、高さ1.7mの円柱。多宝塔へ続く階段の下にあり、紫式部供養塔と並んで立っています。句...
多宝塔の西側に立つ、高さ約3.4mの単純で素朴なかたちの石造宝塔。鎌倉時代の作と言われ、「めかくし石」と呼ばれています。...
月見亭すぐ隣に立つ平屋建ての茶室が芭蕉庵です。元禄年間(1688~1704)、幻住庵に滞在していた松尾芭蕉は度々石山寺に訪れ、この地に滞在したと伝えられています。...
花山法皇西国三十三所復興一千年記念行事の一環として、平成2年(1990)に建立された堂宇で、多宝塔の北東の一段高い場所に位置します。内部中央には如意輪観世音菩薩と、石山寺に奉納された写経を納める輪蔵が...
本堂の東側に、毘沙門堂の南に西面して建つ観音堂は、石山寺の本尊如意輪観音を中心に、西国三十三所観音霊場の観音が祀られています。江戸時代に石山寺の一_であった尊賢による「石山要記」には、宝暦年中に京都の...
硅灰石の手前の向かって右側にある八重の山桜は、良弁杖桜と呼ばれ、石山寺の開基である良弁僧正の杖が根付いて育ったと伝えられています。...
高床式に建てられた経蔵の束の一部は、露出した硅灰石の岩盤に直接立てられていますが、その束を抱くように岩盤に座ると安産になると伝えられています。...
重要文化財御影堂の前、毘沙門堂の向かって左に位置し、高さ約182cm、基礎から相輪まで完全にそろっており、造立年代は明らかでありませんが、様式からみて南北朝時代の作と思われます。基礎・塔身・笠などの比...
大日如来の化身、石山寺の守護神で除災招福をつかさどると言われています。...
穴をくぐると願い事がかなうとされるパワースポットです。
本堂へ通じる大坂(石段)の下の小さな祠に安置される「那須与一地蔵」は、境内の参道の整備中に、本堂正面下あたりから発見され、現在の場所に祀られています。『平家物語』中の扇の的を射抜く話で有名な那須の与一...
本堂へ向かう大坂(石段)の半ばに東面して建つ龍蔵権現社は、宝治元年(1247)、勧進沙門祐円が再興しましたが、天明のころ朽損し、明和年間(1764~1772)再興されました。...
本堂の東側に経蔵と向かい合うように建てられている鐘楼は、寺伝では源頼朝の寄進とされていますが、元徳年間(1329~1331)頃に改築されたと考えられています。重層袴腰で、上層は正背面が5.6m、両側面...
硅灰石の上方にそびえるように建つ多宝塔は、源頼朝に寄進され、下層の須弥壇上框裏面の墨書から建久5年(1194)に建立されたことがわかっています。建立年代が明らかな多宝塔の中でもっとも古い多宝塔であり、...
多宝塔の北西に並んで立つ2基の宝篋印塔は、右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられています。 亀谷禅尼は源頼朝の第二の姫の乳母であり、石山寺の毘沙門天に戦勝祈願をした中原親能の妻です。剃髪後石山寺に...
天智天皇までの歴代天皇を祀る石山寺の鎮守社。一間社流造、檜皮葺で、本堂の東側の硅灰石の上に建っています。慶長期の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立されました。...
16世紀ごろに建立された高床の校倉で、県下で最古の校倉造です。本堂の北東の一段高い場所に立っています。かつては、「石山寺一切経」(重要文化財)と「校倉聖教」(重要文化財)が収められていました。...
霊仙は、近江坂田の出身で、唐で仏典の翻訳に携わった唯一の日本僧です。このことは、石山寺一切経の中の「大乗本生心地観経」巻第一の巻末から知ることができます。その縁で、霊仙の偉業を偲ぶため、昭和55年4月...
本堂正面のすぐ下方にある石切り場跡には、天然記念物「硅灰石」が道沿いに露出しており、15か所の採石痕があります。近年、ここから切り出された石が、飛鳥の川原寺中金堂(7世紀前半~半ば頃創建か)の礎石に使...
石山寺の正門で、瀬田川沿いに東面しています。寺伝によれば鎌倉時代の建立とされますが、慶長期の淀殿の寄進による伽藍再興の際、新築に近い大規模な修理が行われたと考えられています。建ちが高く屋根が大きい、全...
志納所を過ぎ、明王院の前に位置する比良明神影向石は、良弁僧正と比良明神が出会った場所とされています。 「石山寺縁起絵巻」によれば、東大寺の僧良弁僧正は、聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命...
後白河上皇の行幸に際して建てられたといい、はるかに琵琶湖を望みながら瀬田川の美しい風景を楽しむことができます。崖に張り出して立つ懸崖造の建物で、懸崖の部分は板で覆われ、袴腰付の楼のような外観となってい...
八大龍王社は、東大門から無憂園のさらに奥へ進んだ場所に位置し、龍穴の中島に建てられています。龍穴は、炎天下でも請雨法を修すれば必ず雨が降るという池で、「石山寺縁起絵巻」には、石山寺の僧侶歴海和尚がここ...
硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものですが、石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています。「石山寺」という寺名はこ...
本堂の東側、観音堂の北側に西面して建つ毘沙門堂は、兜跋毘沙門天(平安時代、重要文化財)・吉祥天・善膩師童子を祀る三間堂です。実際には正方形の平面ですが、間口三間に対して、奥行二間とし、方三間にしていな...
滋賀県最古の木造建造物で、永長元年(1096)に改築された正堂(内陣)と、慶長7年(1602)、淀殿の寄進により改築された礼堂(外陣)を相の間によってつなぐ複合建築です。礼堂は硅灰石の岩盤にせり出しで...
本堂の相の間の東端にある東西に二間続きの部屋は、紫式部が参籠し『源氏物語』を起筆した場所と伝えられており、「源氏の間」と呼ばれています。この部屋は元々南北に二間続く部屋で、主に天皇、貴族、高僧の参拝や...
真言宗の開祖弘法大師と石山寺第三代座主淳祐内供の遺影を安置するお堂です。単層の檜皮葺で、内部は室町時代初期を降らない様式となっています。江戸時代の尊賢僧正による「石山要記」「石山寺年代記録」によれば、...
現在蓮如上人が祀られている蓮如堂は、硅灰石の崖にせり出しで建つ懸造の堂宇で、慶長期に三十八所権現社の拝殿として建てられましたが、神事にも仏事にも使用できるようになっています。顕密寺院の鎮守拝殿の一類型...